「夏月か。どうした、こんな夜中に」
人通りも少なくなった夜の駅前で虚空を見上げてぼうっとしていた。
御堂京平が声をかけてきたのは、私の手も冷え切ってしまった頃だった。
「そっちこそ。夜中にふらふらと何してんの?」
「明日、急に檀家の連中が来る事になってな。その買い出しだ。今からでないと間に合わんからな。お前は?」
「ん。親父が帰って来るんだってさ」
「なんだ。せっかく父親が帰って来るっていうのに浮かない顔だな」
「顔も覚えてないってのに、実感が湧く訳ないでしょ。何年もほったらかしにしといて、今更父親面されたって」
「ふむ。まぁ、こちらからは頑張れとしか言えんな」
「あ、そ。早く帰ったら?そろそろ店も閉まっちゃうでしょ」
「おお。そういえばそうだな。では、また学園でな」
ん。と生返事を返し、また頭上に視線を戻す。月は十六夜。雲一つ無い夜空は月見にはもってこいだ。秋の夜風に白い吐息を乗せ、透きとおった空気を肺に入れる。
顔もろくに覚えていない父親と、顔さえ知らない母親。
正直、帰って来る父親が煩わしい。幼い頃は、父の知り合いだという女性に世話してもらっていたが、私が中学の時に出て行ってしまった。
広かった屋敷に一人ぼっちとなった私は、その屋敷から出てマンションに住み始めた。別に寂しかった訳ではないが、あの屋敷は一人で住むには広すぎたのだ。
生憎と、金だけはあったので生活には困らなかったし、学園は小等部から大学部まで一貫の学校だったので高等部にも通えている。そう、独り身という事を除けば何の問題も無いのだ。
それなのに、
「…………何で今更なのよ、クソ親父」
ここで公言しておこう。私、夏月弓子は父親が嫌いだ。今では馴れてしまったが、昔は一人暮らしという事で色々と苦労したのだ。
学生が主体である学園都市の中では問題が無かったものの、それを内包する春生市では子供が一人で生きていくには様々なしがらみがあったのだ。
しかし、何故私がそんな面倒を抱えてまで学園都市内の寮ではなく、外界にマンションを借りたかと言えば――
「あそこが、私の性に合ってる」
そうなのだ。一目見て、私には此処しか無いという根拠の無い確信があった。まるで、そのマンション自体に魔法でも掛けられたかのように。
それから、私はそのマンションの一室を借りている。住人も親切に(一部を除くが)してくれているし、個性的な住人のおかげ(せい)で、そこに住んでいて飽きない生活を送っている。
父親が帰って来たらどうなるのだろうか。マンションに一緒に住むのか、屋敷に戻るのか。それとも、一緒に住まなくて済むのか……
ってか、なんでこんな事ウダウダ考えてんのよ私。それもこれもみんな、父親が帰って来るせいだ。
左手で頭をガリガリと搔いて溜息を一つ。駅に視線を戻す。
駅前の雑踏も、今は人がまばらに居るぐらいだ。此処は学園都市。学生主体のこの町において、駅は郊外から通学する学生か、学園に用がある人間しか使わない。休日の夜中なんてほとんど利用者が居ないのだ。
だから、明らかに学生でない人間が来れば一目で解る……筈なのに。父親は未だ見えない。というか、顔も知らないのだから本末転倒なのである。父親というくらいだから、若い頃に張り切っていなければ大体、歳は40前後だろう。
しかし、駅から出て来るのはどうみても若いのがちらほら。これは、終電まで待つのを覚悟になるのか。
まだ見ぬ父親を恨みつつ、私は缶の珈琲をすする。その時、
黒いコートに、大きなトランクを両手に提げた男がこちらに向かってきた。服装は黒。眼鏡を掛けた顔立ちはパッとせず、意識していなければ気にも留めなかっただろう。年の頃も20代ぐらいの若さで、まさかこの男が父親って訳は無いだろう。気のせいだったか。
だが、私の悪い予感は大抵当たるもので……
「えー……っと、弓子、さん?」
その男は、私に声を掛けて来たのだった。
「そうですけど、どちらさまですか?」
私が答えると、その男は悲しげというよりはもっと……言うなれば自嘲的な笑みを浮かべた。その顔、私が嫌いな顔だ。
本能が告げる。この男は気に食わない、と。
「やっぱり、覚えてないよね……」
何だか、嫌な予感が加速度的に増して行く。早くこの場を離れたかったのだが、返事をしてしまったのだからもう遅い。
そして、その男の言葉は、私にとって一番厄介なものだった。
「久しぶり……かな?僕が、君の父親だ」
嫌な予感は見事的中した。その自称父親も、私も、その場に無言で立ち尽くしていた。
男は何かを話したそうな様子だが、無言という事は何を喋ればいいのかわからないのだろう。
どうも人間というものは、信じられない事柄があると周囲の状況を冷静に観察するものらしい。駅の人の流れや男の様子等は把握出来るのだが、どうも自分の頭の中の情報を上手く認識出来ない。
どうやら、私は混乱しているようだ。
「は?父親?」
とりあえず、私は頭の中を整理する為に疑問を口に出した。今は情報が足りないし、男の話を鵜呑みにも出来ない。出会ったばかりの男に、急に「自分は君の父親だ」と言われて、「はいそうですか」と信じる者はいないだろう。
男も、自分のはなしが信じてもらえるとは思わなかったのだろう。落ち着いた様子でこう提案した。
「まぁ、立ち話の何だからファミレスにでも行こう」
そう言うとその男は、迷う事無くファミレスのある方角へと歩き出した。まるで、この街の何所に何があるのか知っているかのように。おそらく、この男はこの街に住んでいた事があるのだろう。
ファミレスはいつも私達が溜まり場にしている所だった。学園から近く、全国チェーンの店舗なので何かと利便性が高い場所だ。
窓際の禁煙席、それも隅っこという何とも圧迫感のある席に腰を掛ける。だが、生憎と今この時だけは適当な場所だと思う。自称父親との会話なんて、店のド真ん中で話をしたくはないからだ。
「ん?新メニューだ。流石に長年日本を出てると、何だか取り残された感じだなぁ……」
男は何とも無しに呟き、場の空気を話しやすいものに変えたつもりだろうが、その顔はカチカチで、目は完全に泳いでいる。
私はキャラメルラテ、男がコーヒーをオーダーすると、互いに自然と無言になった。
当たり前だ。私もこの男も、(男の話を真に受けるのなら)血縁だけが接点の関係だ。距離感も掴めない二人の間に会話が弾む訳がない。むしろ、本来なら男が率先して話を進めなければならない筈だ。
先程まで落ち着いていた男だが、面と向かって話をするのは緊張するのか、何から話すべきか言いあぐねているようだ。
だが、目の前の男の困りきった表情を見て、私は溜息と共に言葉を発した。
「で、父親ってのは本当なの?」
私が口火を切ると、男はホッとしたと目に見える表情で話を始めた。
「いきなりこんな事言われて混乱するかもしれないし、信じて貰えないかも知れないけど、僕は君の父親だよ」
「それを、どうやって説明するの?」
「うん。じゃあ、杏子ちゃんについて話せばいいのかな?それとも、何かそっちから質問に答えようか?」
杏子というのは、私を小等部まで育ててくれた人の名前だ。両親の教え子と彼女は自分で言っていた。
そんな彼女も私が中学進学の時期に、欧州へと渡った。
「写真とか無いの?もしくは、何か血縁関係を証明出来る物とか、親しか知らない事とか。何で杏子さんに私を預けたの?」
そして、次に出てきたのは、最も知りたかった疑問だった。
「何で、私を杏子さんに預けたの?」
口を開けば、流れるように質問が溢れ出る。それは、十数年間ずっと溜め込んで来た疑問。
私は、何故両親がいないのか。そう思えば、私は捨てられたのだと思ったときもあった。三年間とちょっとの一人暮らしを経て、私が得たのは無関心という諦観だった。
私に親がいようがいまいが関係ない。考えてもきりが無い。そこに、急に親が現われても、正直困るだけだ。ならば、親なんて要らない。と、そう思っていた。
自分でも、こんなに質問が溢れて来るとは思わなかった。両親が居ない事実が、私の中でこんなに大きな位置を占めているとは思わなかった。
「やっぱり、ここは家で全部話した方がいいかな……此処で晩御飯にしようか?」
じゃあ、何でファミレスに来たんだ。この男は、どうも先の事を考えないで行動するらしい。
「今此処で答えられるのは答えて。まだアンタが父親って信じた訳じゃないんだから」
声が震える。ここは、どうにか冷静にならなければ。
「わかった。杏子ちゃんは僕の教え子でね。頼れるのが彼女しか居なかったんだ。一人にした事は済まないと思ってる。でも、杏子ちゃんも僕達も、ちょっと厄介な事態に巻き込まれてね……許してくれとは言わない。でも、わかっては欲しい」
駄目だ。やっぱり我慢できない。
「じゃあ、何で私を置いて行ったの!?」
いつの間にか、私は声を張り上げ、その口調は厳しいものになっていた。
勝手な意見、自己満足な考え。その時の判断は妥当なものだったのだろう、だが、それが完全な正解では無いと私は思う。
「弓子を連れて行くには危険だったから。弓子を巻き込みたくなかったんだ」
「それは、アンタの判断でしょ!?残されるこっちの気持ちを考えた事がある!?」
いつも、私は一人だった。杏子さんと一緒に住んでいたが、それでも心は離れていた。授業参観なんて拷問に等しいし、友人を家に呼ぶ事すら躊躇われた。
何より、二人きりで住むには、あの屋敷は広すぎたのだ。
「…………悪い」
男は、俯き唇を噛み締める。もしかしたら、自分の不甲斐無さに泣いているのか。だけど、泣きたいのはこっちもだっつーの。
「でも、それでも弓子には、」
「もういい。何も喋らないで」
私も男も、互いの意見は理解出来たし、言いたい事もわかる。だが、この確執だけは拭いきれない。相手の意見を理解しても、それを受け入れるかはまた別だ。私は私だし、相手は相手だ。世界は私を通して流れて来るし、私は私主観の世界に生きている。そんな、両親が居ない世界で生きていた私の目の前に、いきなり父親という異邦人が混入すれば必ず混乱が起きる。
それ程、十数年という離別は長過ぎた。
そして、再び静寂が訪れる。私はすっかり冷めてしまったカップを手に取り、それを啜った。本来、好きな筈のキャラメルラテは、何の味もしなかった。
「なぁ弓子、やり直すことは出来ないかな……」
男は、沈んだ声で呟いた。顔を上げたその目は、今にも光が消えてしまいそうな程、頼りないものだった。
この男が十数年間何をして来たのかわからないが、それは幼子を連れて行ける程生易しいものではなかたのだろう。そして、こうして帰って来たという事は、私の事がどうでもいいという訳では無かったのだろう。それは解る。解るのだが、
「はぁ?無理に決まってるじゃない」
私は、突き放すように告げた。
「私にとって親は居ないのが当たり前だった。今更父親が現われたって、普通の家族にはもう戻れない。せいぜい、家族ごっこを取り繕うだけになるのが目に見えてる」
「そう……か――」
男は、そう呟いたまま無言になった。店員の、コーヒーのお代わりを進める姿もない。コーヒーは、一口も手が付けられていなかった。
店内のひとはまばらで、私たちの会話が他人に聞こえたという事は無いだろう。幸い、知り合いの顔も無い。深夜にこんな所を見られたら、あらぬ誤解が生じるだろう。
「じゃあ、もう暫くはこっちに居るから。気が向いたら……」
そんな私の心情を悟ったのか、男は話を打ち切った。男の言葉は尻すぼみで、最後の方は良く聞き取れなかったが、どうやらこの男は本当に私の父親なのかもしれない。今度、屋敷に帰って写真を探してみるのもいいだろう。
席を立って、男が会計を済ませる。結局、男は最後までコーヒーに口を付けなかった。
「じゃあ…………」
外に出れば、冷たい秋風が頬を撫ぜる。指先が凍える冷たさの中、男は夜風よりも更に寒々しい口調で別れを告げた。どうやら、私がマンションで一人暮らしをしているのは事前に知っていたようが。
「ん。もう二度と顔見せないで、クソ親父」
自分勝手で、甲斐性の無いこの男だが、それでも私の事を想っているというのは解る。だから、とりあえずは親父と呼んでやる。男も、それが解ったようで、ハッと顔を綻ばせた。
「またいつか!家族全員で――」
その言葉を最後まで聞く事無く、私はマンションに向かって踵を返した。
かくして、私と父親の、奇妙な別居生活は始まった。