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神に愛された子、神を憎む父

水曜日, 5 月 27th, 2009

 ――妻が、懐妊した。

普通の家庭であるならば、それは二人が愛を育んだ結果としての事実であろうが、子を成す事が出来ない私たち夫婦において、それは奇蹟だった。
本来有り得ない事実に、私は喜びよりも恐れを感じた。
私は、子を成す事が出来ない。妻もそれを承知で私と結婚し、子供は養子を取る事で家庭を築いた。
その事実を娘に告げれば軋轢が生まれるであろうが、その事については私も妻も覚悟の上だった。
しかし、今になっての妻の懐妊という事態に、妻は驚きながらもその奇蹟に涙を零した。
だが私は、私だけは、その赤子の存在に薄ら寒いものを感じていた。
娘を遠い異国の知人に預けている今、身重の妻を支えるのは私しかいないというのに私は、妻の懐妊を素直に喜ぶ事が出来ない。
 そして、私の心は完全に歪む事となる。
妻から生まれた新たな生命は、私にとって悪夢でしかなかった。
その子は一目でわかる程均整のとれた顔立ちで、神を讃えた彫像かと見紛う程で、まるでその子自体が神に愛されたかのような、ある種の神々しさを纏っていた。
産声を上げる赤子を見て、妻も、立ち会った人々も、誰もが笑っていた。――唯一、私を除いて。
私は見た。その赤子が、私を見て笑ったのを。
私は、この顔を知っている。
 リリィ・マクダウェル。
私が殺した、かつての恋人の敵――。
その日の深夜、私はその子の寝顔を見つめていた。外では昼間と打って変わって雷雨であるにも関わらず、安らかに眠っている。
その顔を見れば見る程、リリィに瓜二つだ。
天使のような寝顔は、私にとって悪魔の微笑みだった。
私は、一体何時間そうしていたのだろうか。妻の寝ぼけた声を聞いてやっと我を取り戻した私は、ビクリと震え、愕然とした。
私の両手は、力こそ入っていないものの、幼子の首に掛かっていた。私の両手は震え、背筋が凍った。
私は妻に返答する事すら忘れ、部屋を飛び出しそのまま外へと転げ出た。豪雨の中走り続け、ようやく私は大樹の下で幹に手を付いて深く息を吐いた。
私は一体、何と言うことをしてしまったのか。私は、仮にも自分の娘を、手に掛けようと――
考えれば考える程、私は自責の念に駆られた。両手は未だ震え続け、冷汗が止めど無く流れる。
私は新しい生命を、妻の希望を、この手で潰そうとしたのだ。
これが、私の業なのか。私が生き続ける限り、この罪と業は続いていくのか。
私は、どんな顔をしてあの子と妻に会えばいい?嗚呼、呪いは最も残酷なカタチで今なお続いている。

これが私に対しての罰ならば、私は、その罪を償わなければ。
ならば、私はこれからどんな事があろうとも、私の家族を守ろう。もし、いずれあの子が私を殺すとしても。
そうし続ける事が、私なりの贖罪なのだから。
私は業を背負いながら生きていく。神を呪いながら。
私は宿に戻り妻へと微笑みかけると、赤子に……いや、娘に向き直った。
今もまだ笑みを浮かべながら安らかに眠る我が子に、私は慈しみを持って手を伸ばした。
生まれたばかりでまだ毛も生え揃っていない頭から頬へと、まるで壊れ物を扱うように撫でる。
暖かい。これが、生命の温もりか。
私は、こんなにも希望に溢れた命を恐れていたのか。
豪雨の止まぬ4月30日、奇しくも魔女の宴が催される夜がリリアーネ・ショーペンハウアーの、夏月百合寧の生誕日となった。