大怪我御殿! N/W

眩月退魔譚 陸奥編 ―プロット―

Irina・Schopenhauer

眩月退魔譚・陸奥内乱

電車に揺られること、数時間。窓の外に流れる景色は、山と青空と田んぼ。そんな風景が延々と続いている。

手持ち無沙汰になり、改めて手に持った手紙を見る。そこには行き先と、そこに来い。といった完結な文章が乗っているだけ。差出人欄でようやく、本家からの手紙と解る程、無味乾燥な内容だった。

―陸奥・妖遣いの里―

陸奥の中でも更に山奥。幾つもの険しい山や、深い森を抜けた人里離れた村。そんなイメージがあったのだが、どうやら最近の妖遣いの町はそうでもないらしい。

ローカル線を降りた俺はそんな感想を抱いていた。駅自体も無人ではなく、目の前では駅員が切符を切っているし、その先にはちゃんとコンクリートの道路があった。

一応スーパーみたいな商店もあるし、かろうじて街灯と呼べる物もある。しかし、この町には何か切ないものを感じる。

――新しいのに、どこか退廃的な町。

古びた町並みは、不思議な感じで来訪者の心に郷愁感を漂わせる。

「に……しても、どれだけ結界が張ってあるんだか」

この町に入るまで全く気付かなかった事に驚きながら、俺は駅舎から出た。

隣の駅からは認識を逸らす結界や人払いの結界、妖気を封じる結界が巧妙に仕組まれていた。しかも、それらが互いに干渉し合い結界が張られている事すら察知出来ないようにされていたのだから恐れ入る。多分、余程の実力が無い限り見抜くのは至難の業だろう。下手すれば、俺もこの町に入る事が出来なかっただろう。

そして俺が何故この地に来たか。それは、屋敷に来いと文が届けられたからだ。これから向かう屋敷は夏月の本家で、陸奥に名高き妖遣いの総本山である。文を貰った相手は夏月家当代の夏月霊緒という。一応俺の祖母に当たる人物であり、恩人だ。

本家から来たいきなりの呼び出しに、俺は急いでこの地へ来た。霊緒さんには色々と恩義がある為に無下には出来ない。のだが、

「…………道が分からない」

そして現在、自分が道に迷っている事に気が付いた。思い返せば屋敷に行ったのは一度きり。しかも何年も前の話だし、あの時は色々あったからはっきりと道程を覚えていない。 (家の場所が分からなかったらどうしようもないよなぁ)

何処にあるかは漠然とは分かるのだが、どう行くかがわからない。妖遣いの里の場所が分かっても本家がどこにあるか分からないんじゃ世話無い。

まあ、本家なんだからそれなりに大きいのだろう。ならば、

「虱潰しにそれっぽい家を探し回れば、」

「そんな事をしていたら日が暮れてしまいますよ、坊ちゃま」

不意に懐かしい声が聞こえたので、俺は弾けるように声の方を向いた。するとそこには、なんとも懐かしい人物が傅いていた。和服にエプロンをした、どこからどう見ても良家に使える使用人。栗色の髪も、柔和な笑みも、俺は忘れる事は無かった。

その、和服を着た女中の名は隠神玉部。昔から彼女はたまと呼ばれており、かく言う自分もたまと呼んでいた。その名の通り、四国八百八家が化け狸の総大将、穏神刑部の孫娘なのである。忌み子たる俺の世話係を好き好んでしてくれた恩人でもあり、姉代わりでもあった彼女には頭が上がらない。

「お久しぶりです、玉部さん」

「いやですよ坊ちゃま。昔通りたまとお呼び下さいな」

――坊ちゃま。世話係だったたまは俺の事をそう呼んでいたが、あれからもう何年も経ったのだ。もう止めて欲しい。

「そうはいきません。わたしから見れば坊ちゃまはいつまで経っても坊ちゃまです」

相も変わらぬ柔和な笑みを浮かべるたまだが、頑として譲らないのだろう。一見温和に見えるが、彼女はその実頑固で、一度決めたら譲らない。その事を身に染みて思い知っているのは俺ぐらいだろう。何せ、昔に嫌という程思い知らされた。

「だったら俺も玉部さんって呼ぶ。それが嫌だったら、」

「それより坊ちゃま。霊緒様が首を長くしてお待ちですよ。早く参りましょう」

そう言い、たまは俺の腕を取って歩き出した。こうなると何を言っても聞かないのだ。手を握られたまま歩くのも恥ずかしいのだが、人間離れした握力で握られているので振り払う事も出来ず、観念して黙ってたまに付いて行く事にした。

どこか物悲しい町の大通りは蜃気楼で霞んでいて、イマイチ現実感が希薄になってしまう。真っ青な空に真っ白い入道雲。夏の日差しはじりじりと照っていて、出来すぎた程に日本の夏を表していた。

「しばらく見ないうちに大きゅうなりましたね」

道すがら、慈しむように、懐かしむように、たまがそう切り出した。それはそうだろう。もう、かれこれ十年以上会っていなかったのだ。しかし、たまの方は全然変わっていない。久方ぶりに会った時の笑顔でさえ、昔の顔とそっくり――いや、全く同じだ。

どことなく幻想的な蜃気楼の町を抜け、長い長い坂道を上る。蝉時雨は絶え間なく降り注ぎ、潮騒と重なりかしましいことこの上ないが、この情景は嫌いじゃない。

「そりゃあ、大きくもなるさ。たまは相変わらず変わらないね」

まったく変わらないからこそ、駅前で見たときも所見でたまだと判ったのだが。そんな事を意に介さず、たまは素直に喜んでいた。

「嬉しい事を仰ってくれますね坊ちゃま。たまの教育は間違っていませんでしたよ。曲がり間違っても、その、老け……いや成長したなど仰ったら本気で怒っていた所です」

笑顔でそう言うが、たまは怒ると本気で怖い。色々な魔や妖を見て来たが、怒ったたまより怖い者を見たことは無い。本当、下手な事を言わなくて良かった。

俺の内心を知らないたまはウキウキと続ける。

「霊緒様も、富嶽さんも鈴鹿さんも、坊ちゃまに会えるのを心待ちにしていましたよ」

「ああ、懐かしいな、富嶽さんに鈴鹿さんか。お世話になったもんなぁ。」

坂道を上りきると、遠くの丘の上に日本家屋の塀が見えた。聳えるように並ぶ塀は、外界との関係を一切絶つような、まるで巨大な檻の様だ。あれが夏月の本家。

うんざりする程遠く、この場所からは距離的にまだまだ掛かりそうだ。だけど、今はもっとたまと語り合っていたい。何せ――何度も言うが――十年ぶりなのだ。積もる話もあるし、色々と話を聞きたい。

「それにしても、よくもまあ妖遣いの本家がこんな町の近くにあるね」

妖遣いといったら、人里離れた隠れ里でひっそりと生活するのが普通だろう。

「時代、ですから。当代が霊緒様にお代わりになってからですよ。人と妖の共存をお考えになっているのですが、それでも理解を示して下さる方が未だ多くはないのです」

たまは心持ち暗い顔で語る。それはそうだろう。平安の世から妖を道具の様に使役し、魔を鏖殺する事のみに念頭置いて特化した退魔の一族。それが霊緒さんに代替わりした途端、霊緒さんは妖との共存を掲げたのだ。当時まだ十代の小娘だった霊緒さんが提唱した、人間と妖の共存なんて夏月の人間からすればどれほど異端の考えだっただろうか。

折角月宮と決着が付き、倭妖とも折り合いが付いたと一段落する間も無く、今度は退魔の一族の内輪揉めだ。先代が倒れた時、当時霊緒さんの後見人だった叔父が当代になると噂されたが、夏月は直系が当代を継ぐ掟。当然、その叔父が不満を持たない筈は無く、

叔父を筆頭に頭の硬い保守派が反旗を翻した。血で血を洗う泥沼の内輪揉め。

結果として、霊緒さん達が勝った。だけど、その遺恨は未だ続いているらしい。

「俺さ、出てきてよかったのかな」

霊緒さんに拾われて、そして娘の零子さんに預けられて今の生活を送っている訳なのだが。本家が未だごたごたしているというのに、俺はのうのうと暮らしていて良いのだろうか。

「何を仰いますか坊ちゃま。本家の事はたまに任せ、坊ちゃまは平穏無事にお過ごしくださいまし。それがたまの、そして霊緒様の願いで御座います」

そう言われたらお仕舞いだ。この話はもう終わろう。何より、たまもそれを望んでいない。その証に木陰を歩くたまの興味は別の所にある。

「暫く見ない内に坊ちゃまが逞しく成長して下さってたまは嬉しいです。有紀様と遥さまはお元気ですか?」

「ああ、二人とも元気だよ。まぁ、遥の方は元気過ぎるけどね」

あるいは俺よりしっかりしている妹達を思い起こす。今回呼び出されたのは俺だけで二人は留守番だ。しかし何故俺のみが呼び出されたのだろうか。

「それはようござんす。たまはうれしゅうてなりません。零子様がお家から出家し早数年、それが立派な御子息御令嬢を賜り、立派に育っているとは」

木漏れ日が降り注ぐ並木通りの下を抜けつつ、涼風が体を過ぎ行くのを満喫する。

「時期当代は有紀に決定だろうね。本人もその気の様だし、何より……俺じゃ誰も付いて来ないだろうしね」

そんな物好きが居るはず無い。夏月の中でも異端中の異端がこの俺だし。

「いえ、たまはいつ何時でも坊ちゃまの味方ですよ」

――ここに居たよ、物好きが。でも、たまの言葉が何より嬉しかった。

「それより坊ちゃま、ご存知でしたか?」

その科白はたま本人も恥ずかしかったのか、赤い顔で新たな話題をまくし立てた。

「実は、町にいらっしゃった人の殆どが妖の皆様なのですよ」

「え…………」

全く気が付かなかった。この町の半数が妖だって?妖気を感じる訳でもないし、違和感すらない。その事実に俺は驚愕した。

辺りを見回し、目を凝らして良く見てみると、成程。

微量な妖気の残り香を感じた。それも余程注意していない限り誰にもわからないだろう。

「この町が、人間と妖が共存する為の第一歩なのです」

だから町には家屋よりアパートの類が多かったのか。

「驚いた……まさかここまでとは」

町にいる妖は本当に人間の様だった。ここまで形にするのには相当な苦労があっただろう。妖気すら感じず、挙動にも不振な所なんて何処にもない。

俺達は古びた家屋が立ち並ぶ通りを抜けて、急な階段を登る。

此処が妖の町……共存するための第一歩だと思うと、今までとは何か違う感じがした。そう、感慨深いというのだろうか。

それはともかく、

「なあ、たま。まだ、着かないのか……?」

長い道のりを歩いていた為か、俺は既に息が上がっていた。たまの方を見ると、なんと柔和な笑顔を浮かべたまま、軽やかに階段を登っていたではないか。

「ここが近道なんですよ。お屋敷はもうすぐです」

たまはそう言うが、その言葉はもう聞き飽きた。実際さっきから何時到着するか聞いてもこの答えしか聞いていない。

しかし、今度こそたまの言葉は本当だった。

「ほら坊ちゃま、お屋敷ですよ」

階段を登りきった向こう、少し距離が離れた所に例の巨大な塀があった。その塀の元へとたどり着くと、たまは勝手口と思われる小さい扉の鍵を開ける。

「ようこそ。おかえりなさいませ、坊ちゃま」

扉を潜り抜けたたまは、笑顔でそう言った。

「ああ。ただいま、たま」

駅から屋敷に着くまで随分と時間がかかってしまった。もうそろそろで日が傾く。今日はさぞかし綺麗な夕日が拝めるだろう。寺の鐘から、もう5時過ぎになってしまったと分かる。

南西の門から入った夏月の家は、記憶と寸分違わず広大で勇壮かつ兼備というか、そう、あれだ。古き良き日本邸宅?まあ、俺の語学力じゃこんなもんだ。

四季折々の花と立派な松の樹等。石庭と枯山水。様々な要素が織り込まれているにも係わらず、決して混沌とせずに互いが調和し合い、均整のとれた日本庭園に仕上がっていた。そして茂る木々と妖花、広大な池で跳ねる鯉とか妖魚とか……

うん。此処は妖遣いの総本山だ。何があってもおかしくないし、何があっても驚かない。というかなんなんだよこの混沌とした風景は!折角の庭の風景が台無しじゃねえか。

「ああ、霊緒様が迫害、絶滅に瀕している妖の類を引き取っておられるのですよ」

と、たま。…………まあ、納得。

周りの風景を見ないようにしながら屋敷の庭を歩く。なまじ広すぎるだめに敷地内に入っても霊緒さんの所へ行くにも時間がかかる。

敷地の中には本邸以外にも家屋があり、分家筋の親族が住まっている。かつて門外不出で隠れ住んでいた時代の名残らしい。

外から攻められるのを防ぐと同時、中の者が逃げ出すのを防ぐための牢獄。こうしてのんびり歩いていてもびりびり感じるのは結界が強力な証だろう。

「に、してもさ。やっぱり俺は歓迎されてないみたいだ」

時折見える分家の人間の視線が痛い。更には妖の蔑みや嫌悪の視線や殺意とか。無視するのには慣れたといっても気が滅入る。ここは昔と変わらないようだ。

「…………殺してくれようか」

「ここは我慢してくださいまし坊ちゃま」

こうして忌避されている俺より、皆に慕われているたまの方が哀しそうな目をしている。

「どうしてたまが哀しそうな目をするのさ。俺は平気だよ。もう子供じゃない」

「分かり合えば仲良くなれますのに、どうして歩み寄れないのか。たまはそれが悲しゅうてなりません」

皆の手前か表情を変えずに、しかし目には悲しみの色を浮かべてたまは言う。

「分家筋は共存に反対だからね。道具のように扱われた妖だって人間を良い様には見ないさ。それに、俺も真っ当な妖じゃないから仕方無いさ」

妖は古くから忌避される対象にあった。当然、忌避されれば討伐されるのが常。そしてこの夏月の一族は、妖を道具のように遣い、妖を屠る〈妖遣い〉の一族だ。よって妖との間に信頼関係など無かった。壊れれば捨てられる人形のように、妖は酷使された。

何故、道具と歩みを共にしなければならないのか。何故、人間如きに溶け込まなくてはならないのか。そう思うのも妥当だとは思う。

「誰かを見下さなくては矜持を保てないのでしょうか」

「妖が悪いんじゃない。人間が悪いのさ」

時代の流れだからな。もう昔じゃない。夜にすら人間は侵食して来た。ならば妖は何処へ行けばいいのか。夜を取り返す為に争うか。

「だからと言って互いに憎み合えば争いは止まりません。双方が手を取り合わなければいけないのです。綺麗事と仰って頂いてたまは構いません。ですが、争わずに済めばそれに越したことは御座いません」

故に争った。それが何十年も前の、月宮と退魔守護職との死闘。妖怪組織の一端でこそあれ、武力派だった月宮と退魔の一族との戦は退魔守護職の勝利に終わった。

しかし、退魔の一族も無事という訳ではなかった。痛み分けという形で月宮より上の妖怪組織との対談により、休戦及び不可侵条約が結ばれた。

「だけど武力じゃなきゃ解決出来ない事だってあるさ」

「たまは坊ちゃまをそのようにお育てした覚えは御座いません!」

なんだかんだ言っている間に、本邸へ辿り着いたようだ。敷地の中でも一層豪華な屋敷であり、宗家の人間のみ足を踏み入れられる。例外的に、親族会議が行われる広間のみ分家筋が入れるが。そして、妖は一切足を踏み入れる事を許されない。

の、だが。

「霊緒様は離れにてお待ちになっていらっしゃいますよ」

本来、当主に俺みたいなのが会うのは御法度なのだが、霊緒さんは離れに幽閉されていた俺に会いに来てくれていた。

まつろわぬもの、霊緒さんに拾われた俺を見た前当主は俺をそう言った。妖ですらない俺は存在すら許されぬ者。しかし、俺の稀有な能力を知った前当主は、俺を討伐する代わりに俺を手駒にしようと目論んだ。そして、刃向えなくする為に、俺の存在を分割した。存在を分割されるという事は、魂が分かれるという事。そして、俺は年齢を削られたのだった。

霊緒さんは友人というか、親代わりみたいな感じだった。人間の中で、俺を認めてくれる唯一の人だった。

本邸の裏、石畳を歩くと見える離れ。あれが、昔俺が幽閉されていた場所。といっても中は結構広く、快適であったが。元々は宗家の人間がくつろぐ場所だったとか。地下牢じゃなくて本当に良かった。

「失礼致します。坊ちゃまがお着きになられました」

「二人ともお入りなさいな」

たまが襖越しに傅くと、中から柔らかな声が聞こえて来た。

「失礼します」

たまが開けてくれた襖の向こうに、十数年ぶりに会う三人が見えた。

一人は、服の上からでも分かる程筋肉を蓄えていた。胴衣ははち切れんばかりだし、些か窮屈そうだ。

しかし、硬く閉じられていた瞼を開けると、優しげな瞳が覗いていた。

もう一人は、心ばかし儚げな印象を受ける色白の女性。目のやり場に困る、裾の短い白の着物に、凄まじい程彼女の黒髪が映えていた。

怜悧な目つきは昔、恐怖の対象だったが、今は口元が綻んでいる。

そして――座敷の中央に座す、柔和な笑みを浮かべた老婆。

いつまでも変わらない二人と、すっかり変わってしまった一人の姿を見た俺は懐かしさのあまり目元が緩んだ。

靴を脱ぎ、室内に入る。ああ、懐かしい匂いだ。薄っすらとしか覚えていなかったが、何年もこの部屋に居たのだ。一目見て当時の記憶を取り戻した。

「お久しぶりです」

「ええ、本当に懐かしいわ」

正座し、深々と礼をする。霊緒さんが頭を上げてと言うので、俺は三人を正面から見た。

「大きゅうなったな、坊。男子三日会わざれば刮目して見よと言うが。いや、立派だ」

「ええ。ついこの間までちみっこくて可愛かったというのに、成長が早いのね」

この二人は相変わらずといった所か。妖は寿命が極端に長い分、成長がとても遅い。数十年の年月も、刹那に過ぎないのだろう。

「富嶽さんと鈴鹿さんはお変わりないようで」

「あら、それは私が老けたという意味ですか?」

冗談めかした霊緒さんのからかいに、俺は笑えなかった。

霊緒さんに最初に会った時、霊緒さんはまだの十八の小娘だった。全てを喪い、一人死ぬ運命だった俺を拾ってくれたのは一種の奇蹟だったと思う。

日本へ命からがら逃げ切れた事。そこが妖遣いの里だった事。そして、俺を発見したのが霊緒さんとたまだった事。

俺の過去も、咎も罪も許し、そして贖えると言ってくれた霊緒さんの顔を、俺は今でも忘れない。

まるで本当の家族のように、時には友のように接してくれた皆には、本当に感謝しているし、恩は一生を使ってでも返したい。

「いえ……そういう訳じゃ、」

「ふふっ、冗談ですよ。もう、出合ってから何十年も経っているのだから老けて当たり前よね。立派な孫までいるのですから、すっかり私もおばあさんですね」

昔から人が困るような事ばかりを冗談めかして言い、人をからかうのが好きな所は変わらないらしい。だが、昔と変わらない所があるというのは嬉しくもある。

「飯はしっかり食うておるか、坊」

「はい。富嶽さんは相も変わらずといったご様子で」

応。それは僥倖、と富嶽さんは地に響く様な声で応える。昔は無口だったのだが、戦が終わってからは口数も増えたと思えるのが嬉しい。

「好き嫌いは直ったかしら?勿論、大蒜以外でよ?」

う……だからその目が怖いのだ。

「どうしたのです?まさかその歳で?」

ただでさえ鈴鹿さんは怖いのに、そこに霊緒さんまで乗らないで欲しい。

「呆れたわね。あれほどたまにまで言われていたのに……」

冷たい目が刺さる。たまも俺の後ろに控えてないで助け舟を出してくれてもいいのに。

そんな俺の心情を察してか、存分に俺がうろたえてから、たまが話題を変えてくれた。

「閑話休題ですが霊緒さま、何故何の前触れもなく坊ちゃまをお呼びになった理由をお話しておいた方が宜しいのでは」

確かに。手紙の内容は最低限の場所と、届いた翌日に急いで来いとの事だったし、手紙を寄越した式神も急いでとんぼ返りだった。まるで、何かタイムリミットがあるかのように。

その話題に変わると同時、三人の表情が真面目なものになった。

「さて、何処から話ましょうかね。事後承諾のようで少々心が痛みますが、公共の通信手段はおろか、式神すら盗聴されそうだったので詳しい事は伝えられませんでした」

何やら、深刻な話のようだ。空気がピリピリしている。霊緒さんの後ろに座している二人からは重々しいものを感じる。たまも柔和な笑みをこの時だけは崩した。

「事の始まりはこうでした」

―夏月の屋敷・離れ―

遠い昔の、夢を見た気がする。もう、何世紀も前の一夜。目が覚めると同時に見た夢の内容は薄れていったが、唯一――昏い暗い黒い森と、眩むような銀月だけが頭に残っていた。なにか、大切な事を忘れているようで、何処となく夢見が悪い。

夢の余韻から醒めると、自分が夏月の屋敷に居る事を今更ながら思い出した。 (どうりでメイドが来ないわけだよ)

のそりと布団から起き上がり、部屋に置いてあった着物に袖を通した。多分、用意したのはたまだろう。何せ、生地から帯まで全て漆黒。実に良く俺の好みを理解している。

昔と違い、周りの視線にもある程度耐えられるようになったので外に出てみるのも良いかもしれない。

「失礼致します。――あらら、お早いお目覚めですねぇ、坊ちゃま」

「ああ。おはよう、たま」

そんな事を考えていると、たまが襖を開けて入って来た。

「朝餉の時間には些か時間がありますので散歩でも如何です?」

「それもいいと思ったけど、霊緒さんに昨日の事を詳しく聞いておきたい」

夏とはいえ早朝は冷えるらしい。本館へと続く渡り廊下はひんやりとしていて、裸足にはちと寒いくらいだ。こうしていても辺りの妖気がひしひしと感じられる。流石は妖遣いの総本山という事か。

霊緒さんが居る私室というのはまだ先か。

「では、朝餉の用意に向かいますので」

え、あの……私室への行き方がわからないのですが、もし?

そんな言葉を言う暇もなく、たまはそそくさと台所で向かって言った。昨日今日で広大な屋敷の通路を憶えきれる訳もなく、つまり迷子です。

幸い、本邸なので分家筋の人間や妖がいないのが救いだ。使用人を捕まえればすぐ霊緒さんの私室に行ける筈。

そう、思ったのが間違いの元だった。

      †      †      †

「……お早う御座います」

「お早う。良く眠れたかしら?」

それから、俺は半時程迷っていたのである。使用人の姿が見えなくて焦り、笑みを浮かべて俺の迷う姿を後ろで眺めていた鈴鹿さんを発見し、鈴鹿さんに説教かまし、そして私室に至ってみればたまがぷんすか怒っていて、曰く朝餉が冷める心配があったとの事。

そうしてようやく、俺は朝飯にありつけたのである。

「それで、昨日の話の事ですが、」

「坊ちゃま、お行儀の悪い!食べ終わってからお話下さいまし」

「はい……」

たまの叱責に、しぶしぶ味噌汁を啜ってラストスパート。焼き魚の小骨に苦戦しつつ、ようやく食べ終えた。

「昨日の話であったな、坊」

富嶽さんが話しを切り出した。

そう、夜も遅かったので詳しくは聞けなかったので、その事について詳しく聞きたい。

「して、何処まで話ましたかね」

「分家筋の者が叛逆を企てている、と」

分家筋の武等派、黒巣一派が妖を用い霊緒さんの暗殺を企てている、との事。妖と共闘するのではなく、完全に支配して手足のように遣う事により、替えが幾らでも効く力押しと物量作戦を得意とした分家の者だ。その戦闘スタイルは妖任せなれど、妖の特異な力は脅威だ。単純な仕組みだからこそ、突破は難しい。

「黒巣の術は妖を完全に己の支配下に置くというもの。反逆に参加する者の大半は意思を奪われ人形の如く扱われているだけでしょうね」

鈴鹿さんの言葉に、沸々とした怒りが見え隠れしていた。

「本人は陰に隠れてこそこそと操り、罪は全て妖達に押し付けるつもりね。黒巣の者らしい、姑息でお粗末な方法ね」

というか、暗殺計画が漏れるようじゃもう駄目だろう。

「他の分家筋は何と?」

「霧崎と神月の者は傍観に徹する、と。天音の者に至っては、勝者に従うと言うておった」

共生の道を歩むか、道具として支配するか。夏月の行く末がこれで決まる。

黒巣の当代、黒巣草玄が今回の首謀者。そこまでして妖との共生が嫌なのか。いや、それとも夏月の権力に目が眩んだか。否、そのどちらも完全な正解ではない。

思い出した。かつて、反旗を翻した一派。その首謀者の名は、

「…………黒巣雅尭」

――そう、黒巣草玄の、実の父。

「敵討ち……か。黒巣の子倅め、無益な事を……」

富嶽さんが眉根を寄せて目を閉じ、難しい顔をする。富嶽さんにしても同族との戦いは避けたいものなのだろう。

「叛乱がわかっていて、何故今まで対応をしなかったのか聞きたい――そんな顔をしているわよ」

顔に出ていたのか、鈴鹿さんが経緯を説明し始めた。

「完結に言えば、確証がないのよ」

今の霊緒さんの立ち位置は危うい。確証がない段階で黒巣に手を出せば、黒巣に反撃の口実を与えてしまうだけだ。事実はどうあれ、他の分家筋の手前、名目上でもこちらは被害者でなくてはならない。そして、叛乱を少数で鎮圧出来るという強さも。

よって、こちらは手を出されてからでは動けないのだ、と。

「内偵の報告によると、決行は明日の丑三つ時との事。一日限りですがゆっくりと寛ぎ、英気を養って下さい」

霊緒さんは明治生まれと思えない程、元気で若々しい。確か、気の応用で老化の進行を遅延させているのだとか。

妖との共生は、簡単に出来るものじゃない。ましてや土台が出来ていない内に霊緒さんが亡くなったのならば今までの苦労は水泡に帰す。己が犠牲を厭わないのは、果たして高潔な献身なのか。それとも、

「いえ、久しぶりに稽古をつけて頂きたいのですが」

だから、俺たちが霊緒さんを守らなくちゃならない。俺はそう決心し、師範でもあった富嶽さんと鈴鹿さんの二人に申し出た。

「良い心がけだ、坊」

富嶽さんが口を吊り上げて笑う。

「殊勝な心掛けが出来るようになったではないか。昔は事ある毎に逃げ隠れしていたと言うに」

人間と妖怪、双方が穏やかに暮らせる世を望んで何が悪いのか。自分勝手な利害と、憎しみで、一体何が為せるのか。

今の俺じゃ力及ばず、霊緒さんを手助け出来ない。だから、今は少しでも強くなりたい。

「明日は忙しくはなるけれど、稽古も手加減しないわよ?」

霊緒さんが体を張って次の時代を作ろうとしているのだ。こちらが呆けていてどうする。

「はい!お願い致します!」

「坊ちゃまがご立派になられて、たまは嬉しゅう御座いますよ」

「大げさだなぁ、たまは」

軽口を叩いて場を朗らかにしたい所ではあるが、傍から見ても師範二人の目付きが徐々に鋭くなって行くのがわかる。まるで昔に戻って行くようだ。

「ク、ク、ク――長らく大人しくはしていたが、未だ戦場の空気が忘れられぬようだ」

「ええ。身の程知らずの黒巣の子倅に、少々熱いお灸を据えましょうか」

闘気――いや、殺気と呼ぶに相応しい妖気が目に見えて二人の躯から滲み出ている。妖としての闘争本能は、未だ健在らしい。

やはり、二人は首謀者の黒巣草玄を殺すのだろうか。

「皆に、お願いがあります」

今まで朗らかな笑みを浮かべていた霊緒さんが、不意に真面目な顔をして、口を挟んだ。

「出来れば、誰も殺めたくはないのです」

その言葉に、二人は妖気を鎮め、霊緒さんに視線を寄越した。

「妖と人間の軋轢も、言うなれば憎しみが根底です。そして、今回の場合にも憎しみが少なからず関わっているでしょう。ですが、私たちが叛逆を力ずくで鎮め、草玄達一派を殺めたとすれば、またいずれ、誰かが復讐に走るやも知れません。草玄の動機も、兄の仇討ちでしょう。ですから、」

「霊緒さん」

いつの間にか、俺は霊緒さんの話を遮っていた。

「坊ちゃま!」

たまが俺を叱責するが、俺はどうしてもその意見に反論したかった。

「憎しみの連鎖を断ち切る為に、草玄を許すというのですか」

「ええ」

「しかし、その優しさが命取りに為る事だってあります」

世界はいつだって残酷だった。聖人が生き残り、悪人は滅ぶなんて幻想だ。そんな風景をいつも目にしてきた。

「敵は、悉く切り捨てなければ、いつか足元を掬われます」

霊緒さんの意見が立派なのは重々承知だ。だけど、綺麗事だけじゃいつか裏切られる。

「いいですか」

と、霊緒さんは一区切りし、穏やかに口を開いた。

「妖との共生は、難しい事でしょう。簡単には理解されないという事も承知の上です。ですが、妖との共生で最も重要なのは、お互いを理解し、信じ合う事ではないでしょうか?私たちはこれから、人間と妖との間にある深い溝を埋める為、理解を深め、互いを信じ合い、どれだけ長い時間がかかろうとも、いつか人間と妖が共生出来る日が来ると信じて邁進していかなくてはならないのです。それなのに、人間同士が理解しあえないなんて本末転倒です。私は信じたいのですよ。人間と、草玄さんと理解しあえるという事を」

それは、詭弁だったろう。綺麗事だったろう。これ以上なく臭い科白で、三文芝居ですら出てこないような世間知らずの妄言だったろう。誰もが無理だと一蹴する類の話だったろう。

それをこの人は、真顔で言っていたのだ。心から、必ず分かり合えると信じて。

「わかりました。じゃあ、俺も信じますよ。玉緒さんが夢見た世界を」

もう何も言うまい。こうなったら最後まで、この人が新しい時代を作るその瞬間まで、この人の事を信じよう。

「他の皆はどうですか?何か反対は?」 『我等は主の命に従うのみ』

二人は元より異論はなかったのだろう。それ以上何も言わずに押し黙った。

「との事で、がんばりましょう」

たまの一言で、緊迫した空気が霧散した。これが彼女の良い所だ。

こうして、話し合いはひと段落したのだった。

「さて、坊。朝餉も消化し終えただろう。練武館へ行くぞ」

「そうね。地獄すら生温く感じる稽古をはじめましょう――ウフフフフ」

忘れていた。さっきはテンションが高かったから格好付けてしまったが、

「頑張ってくださいまし。骨はたまが責任持って拾いますからご安心を」

二人の稽古は、物凄くハードという事を。

     †      †      †

―離れ―

「坊ちゃま?大丈夫ですか、もし?」

「……………………」

「調子に乗ってあのような事を仰るのがいけないのですよ?」

「……………………」

「坊ちゃまはいつもそうです。格好付けるのも程々になさらないと身を滅ぼしますよ?」

「……………………」

「確かに、殿方は格好の良い台詞に憧れるものと存じておりますが、坊ちゃまは坊ちゃまなのです。無理をなさらずに……って、聞いています?坊ちゃま」

「……………………」

「はあ……たまは悲しゅう御座いますよ、坊ちゃま」

たまは深い溜息を吐いて、俺を哀れむ目で見つめて来る。

「……………………」

僅かに身をよじり、たまの視線から逃れようもするも、それすら辛い。こうして呼吸するのも精一杯なのだが、何よりたまの視線が一番辛い。

「何かお飲み物をお持ちしましょう」

たまが退室するも、全く反応出来ない。もう、格好付けるのはやめよう。

改めて稽古の内容を思い返すだけで背筋が凍る。俺が人間だったら、確実に7回は死んでたな、アレは。富嶽さんも鈴鹿さんも、本当に容赦無かった。

というか、本当に恐怖がまたこみ上げてきたのでもうこの話は止めよう。

「なんとか落ち着いたようですね」

茶盆を携えたたまが戻って来る頃には、なんとか起き上がれるレベルまでにはなった。

「昔から格好付けては裏目に出るのが坊ちゃまなのですから、ご自分の分を弁えませんといけませんよ?幸が薄いというか、間が悪いというか……」

「うん……いや、わかってるけどさ、」

確かに、たまの言う事は全部正しいので反論すら出来ない。

「それよりも、今何時だ?」

「もうすぐ夕餉の時間ですが、話を変えようとしてもそうは参りませんよ?」

明日、戦が始まるのだ。しっかりと休息と栄養を摂らなければ。

「はぁ……ですが、今回ばかりは勘弁して差し上げます。お食事をお持ちしますね」

何度目かの溜息を吐いたたまが、夕飯の準備の為に退出して行った。

「なあたま、今晩の献立は何?」

「山女の塩焼きに山菜の天麩羅など如何でしょう?」

「いいねぇ。あ、茸は抜きで」

「まだ好き嫌いが直らないのですか……わかりました」

更にたまが呆れたように感じるのは、気のせいではないだろう。離れから霊の足音が段々と遠ざかって行く。

改めて一人になると、どうも物悲しい。何時に無くセンチな感傷に浸ってしまう。

いつの日か、俺のように苦しむ者が居なくなるだろうか。

人は、人外を受け入れるだろうか。

身勝手に造られ、身勝手に捨てられ、そして世界にも望まれぬ、俺と同じような者達が幸せになれる日が来るだろうか。

錬金術師に鋳造された俺。協会に追われ、人間に迫害され、そして此処に行き着いた。霊緒さんに拾って貰えたのが奇蹟に近い。

あのまま、朽ち果てて行く筈だった自分が今生きていられるのは、色々な人のお陰だ。拾われて、救われて、面倒を見て貰った。霊緒さんだけではない。過去何人もの恩人に会い、そのお陰で今の俺が在る。

だが、逆を言えば、俺だけがのうのうと生き延びているという事だ。

俺は…………

「お待たせしました」

晩御飯の膳を持ったたまが来てやっと、暗い考えから抜け出せた。正直、助かった。あのまま考えが止まらなければ、さらに思考の悪循環に陥っていただろう。

「ありがとうな、たま」

「いえ、坊ちゃまのお世話がたまの……」

「いや、そうじゃなくてさ、たまが居てくれて助かったよ」

「どうなさったんです?藪から棒に」

不思議を通り越して気味が悪いとでも言うように、眉を顰めるたま。

「たまが居たからこそだなって思ってさ」

「からかうのは止めて下さいまし。ご冗談はさて置き、夕餉に致しましょう」

ともかく、気分を新たに俺は、明るく夕飯に手を伸ばした。

「私も此処で頂かせてもらいます」

たまが向かいに座ったのを見て、手を合わせた。 『戴きます』

たま曰く、命を頂いた動植物へ、そして作り手への感謝をわすれてはいけませんよー、との事だ。昔からこれが習慣付いてしまって、今でもこの習慣を忘れた事はない。

「これもたまが?」

「ええ。お山で良い物が採れたので。改心の出来です♪」

「まさか、いつもの食材って全部たまが採ってきた物なのか……?」

「まさか。今日はたまたまですよ。坊ちゃまが稽古なさっている間にお山へ散歩に行ったものですから」

流石にそれは無かったか。そりゃそうだよな。この屋敷に何人居ると思っているのやら。ちょっと考えれば分かるだろうに、俺。

「それにしても美味いなぁ……」

「そう言って頂けると嬉しゅう御座いますよ。美味しく召し上がって頂けると作り甲斐がありますね。――そうです」

ぽむっ。と、たまが手を叩いた。

「明日は坊ちゃまの好物をお作り致しましょう!坊ちゃまの笑顔が見れるなら安いものです」

ほんわかとした笑顔が眩しい。ううっ、本当にたまが居てくれて良かった……

心の中で涙を流して、俺は料理に舌鼓を打った。

「坊ちゃま……」

たまが不安げに呟いたのは、俺が丁度山女の塩焼きに手を付けた時だった。只ならぬ雰囲気に、思わず箸を止め、たまを振り仰いだ。

「何やら、空気が澱んでいませんか?」

「換気するか?夏だし肌寒くは無い筈…………」

濃密な空気と表現すれば良いのか。重苦しく、胸糞が悪くなるような空気が纏わり付く。

待て。待て、待て、待て!頭の中でガンガンと警報が鳴り響く。この澱みは換気不足などでは無い。澱めく沼地のように、何処までも沈み行きそうなこれは――――

「――――妖気」

まるで屋敷を丸ごと押し潰さんとするかのような、莫大な妖気が屋敷を埋め尽くしている。それが澱みの原因か!?

「お分かりになりましたか、坊ちゃま。総量的には莫大かもしれませんが、半数は有象無象、魑魅魍魎の集まりのようです……」

たまの表情も鋭くなって行く。障子越しに外の様子を窺うにも、不愉快な重苦しさで妖の位置が全く掴めない。

もし、内偵の存在に気付かれていたら?

もし、気付いていながら尚、内偵を見逃していたのだとしたら?

もし、それを逆手に取ろうとしていたとしたら?

答えは一つだ。霊緒さんが危ない!

「たま!」

「ええ!疾く霊緒様の所へ!」

身を翻し、部屋を飛び出すべく畳敷きの床を蹴る。早く霊緒さんの所へ!

勢い良く障子を引き開け、廊下に飛び出し――――

「え…………」

真っ先に目に映ったのは、月光を反射に銀色に輝く、鋭利な刃だった。

「坊ちゃま!」

濃密は妖気が、殺意となって鋭角さを増して行き、刃に込められる。凶器越しに見える顔は見知った者だった。あの時―昔向けられていた―と同じ憎悪の顔が、俺を凝視していた。

そこまで憎んでいたのか。そう思うと、時間が緩やかに感じられた。安寧を貪るのが憎いか。妖にすら劣る者が日の目を見るのが憎いか。

いつも向けられていた憎悪に慣れきってしまった故、相手の憎悪にも鈍感になってしまっていたのか。

嗚呼――こいつは、そこまで俺を殺したい程に憎かったのか。

全力で疾駆しようとしていた俺は、初めから殺す気で居た相手の兇刃を避けられる訳が無く。

無慈悲にもその刃は振り下ろされ、緩く弧を描きながら吸い込まれるように俺の首筋に……

「伏せろ馬鹿弟子ッ!」

そして、横からの衝撃に凶器ごと目の前の妖が吹き飛んだ。血のように紅い衝撃は、血霞の奔流。離れの縁側をごっそりと抉った霞の使い手は、月下に佇んでいた。

後に残るは、崩壊した縁側の残骸と、ガラクタ染みた妖の成れの果て。辛うじて生きてはいるらしいが、当分動く事は出来ないだろう。

真に驚くべきは、その破壊が異質な事である事実だ。その血霞は縁側と妖を無残なまでに破壊しておきながら、俺とたまには一切被害が無いのだ。

何より、俺はその血霞の使い手の事を知っていた。馬鹿弟子。その呼び名の懐かしさに、思わず呆けた声を洩らしていた。

「紅葉さん……」

目の前に佇む女性は、男性が着るべきである筈の紅い着流しを纏っていた。彼女は、異能を発揮した腕を前に突き出したまま、怒声を放った。

「何を呆けているか、こんの……馬鹿弟子がッ!今、呉葉が霊緒様の所へ向かっているが、富嶽も鈴鹿も何をしている?悪路が死んでから腑抜けたか」

黒曜石より深い色をした黒髪の女性は、怜悧な顔も鋭く、不機嫌そうに怒気を孕んでいた。

名を、紅葉。霊緒さんに仕える戦頭であり、俺の師でもあった人だ。

「紅葉様!?もしや……」

たまも慌てて紅葉さんに駆け寄った。それもその筈、黒巣を密偵していた筈の紅葉さんと呉葉さんが戦っていると言う事は即ち、戦の始まりを意味しているのだ。

たまの心情を悟ったか、紅葉さんが険しい顔で頷いた。

「そのまさかだ、玉部。黒巣が動いた」

十六夜の月下、闇夜の影には蠢く魑魅魍魎、妖怪変化の群れ。近場に大物はいないようだが、これでは本邸まで辿り着くには少々骨が折れそうだ。――俺とたまだけで突破するのならば。

「気をつけろ。完全に操れる訳ではないが、その分数が多い」

黒巣の術は妖を強制的に使役するもの。本来なら意思すら完全に奪い、物言わぬ道具として使役する。しかし、今回は縛りを弱くしていると紅葉さんは言った。その分、多くを使役する為だろうか。

「おそらく、手数で押しつぶす気だろう。意思までは奪えぬが捨て駒には丁度良いのだろう。大半が人化出来ぬ三下だ。本命は恨みを持つ高位の妖か。本家に恨みがあるならば奴はそれを上手く誘導すれば良い」

先程の妖だって高位の者だったろうに。あれほどの憎悪があれば縛りが薄くとも操るのは容易いのか。いかし、どうも納得の出来ない部分もあった。

「ともかく、今は霊緒様に合流致しましょう!」

気丈なたまの一声ではっとし、霊緒さんの私室へと駆け出す。飛び石を蹴り、本邸の方へ向かうと同時、様子を見ていた周りの妖達も一斉に動き出した。

斬り込み役が呆気無くやられたのに対して慎重になっていたのか、無闇に突っ込んで来る者は居なかった。進路を塞ぐように立ちはだかる以外は、距離を取って遠距離攻撃を仕掛けるくらいだ。

が、ここでも違和感が残る。使役しているならば無闇やたらに突っ込んで来る筈。黒巣が精密に使役している?否だ。こんな数を一糸乱れず悉くを使役出来る筈が無い。例え一族総出でもだ。意思を奪えない代わりに独自で判断出来るのか?ただ、殺せという命令が刷り込まれているだけで。しかし、

「馬鹿弟子ッ、呆けるなッ!」

目の前に迫る鬼火を振り払う。裏拳を横殴りに振るって追い払うが、逆に触れた手の甲に火傷を負う。しかし、こいつ等はあくまで使役されているだけなのだ。攻性術式は使えない。使える術が攻撃技なのが悔やまれる。せいぜい、肉体強化するのが関の山の状態だ。

たまは大丈夫だろうか?おっとりとした気性のたまの事だ、俺が守らないと。そう思い脇を見るとたまは、何処にあったのか竹箒を振るっていた。その上、相手をいなし、逆に放り投げるといった芸当までこなしている。……俺、たまより弱いんじゃないのか?

だが、こちらが手加減していようと、向こうは殺す気で居るのだ。多勢に無勢で、やり難い事この上ない。このままではジリ貧だ。受けに徹している限り、苦戦は免れない。

が、しかし。ここに例外が存在する。

「そこを退け、雑魚が」

軒並み障害物をなぎ払う血霞の奔流。夜の庭園を疾駆しながら放たれるソレは、庭木や灯篭等の無駄なものを一切傷付けず、的確に妖のみを巻き込んでいた。だが、決して威力が低いわけでも、範囲が狭い訳でもない。暴力的なまでの奔流は相変わらずで、まさしく瀑布か暴風といった表現が相応しい。

月影の色濃く映す暗闇から現れる妖怪変化の有象無象。その悉くを打ち払う血の霞。

手加減しつつ、この大出力で大人数を相手にするなど、波の力量ではない。とにかく、手加減して戦える程強いのだ、紅葉さんは。

無鉄砲に飛び掛る九十九神を吹き飛ばし、巻きつ付こうと飛来する一反木綿を引きちぎり、金棒を振りかぶる牛鬼をブッ飛ばしている。

――訂正。半ば本気だ、この人……

「一度蔵の方まで出るぞ!今分散するのは危険だ!他の奴らと合流して戦力を固めるぞ!」

血霞を撒き散らし、暴虐の中心地に立つ紅葉さんが駆け出す。

同時、妖怪達も動き出した。その多くが紅葉さんの進路を邪魔するように飛び掛る。真っ向勝負は分が悪いと見て数で押しつぶそうとしたのか。

が、その無駄な抵抗は――

「死にたくなければ伏せていろッ!」

放たれた血霞。しかし、ソレは相手を吹き飛ばし、地を抉るに留まらず、

「焔香・爆葬霞」

刹那、周囲に撒き散らされた血霞が一斉に爆発した。一瞬、真昼になったかと錯覚するような光量が屋敷を包む。熱波と劫火が周囲を嘗め尽くし、爆心地を中心に地面を抉り取った。そこにあった庭木も、池も、全てを消し飛ばして。

「うっ、わぁ…………」

熱波が頬を過ぎ去り、呆然と立ち尽くした。紅葉さんに纏わり付く下級妖怪は全て地に臥しており、立ちはだかる者は居なかった。たまでさえもきょとんとしている始末。それ程、その威力は凄まじかった。

しかし、何より恐ろしかったのは、死者が居ないという事実。

「行くぞ。これで追っ手も暫くは来ないだろう」

その一言で我に返り、抉れた地面に足を取られながらも急いで紅葉さんを追う。紅葉さんが向かっているのは屋敷から幾許か離れた蔵だ。そこには、一人の雪女が住まっていると聞いている。

「雪華様をお呼びになるおつもりですか」

「ああ。腐っても万年雪の加護を持つ雪女だ。居ればかなりも戦力になるさ」

屋敷は広い。何より、夏月の親族と、妖を外界から隔絶する役割があったのだ。分家ごとに隙間はあるももの、結局は同じ敷地内だ。傍観に徹するとは言っても、巻き込まれないとは限らない。相手はあの黒巣だ。どんな手段を使うか知れたものじゃない。

暫く走っていると、不意に薄寒さを感じ、鳥肌が立った。

「あれが、万年雪の蔵……」

視線の先に蔵が見えた。その雪女の眠る蔵は、そこだけ季節が停滞したような冬の寒さを保っていた。近くに寄れば寄る程、肌寒いなんてレベルじゃない。これはまさしく、極寒と呼ぶに相応しい。

その蔵の周囲は白い霜で覆われ、その蔵の扉は開け放たれている。

「起きているのか、雪華?――ッ!?」

紅葉さんが蔵の中を覗き込むとそこは、氷土が支配していた。氷の檻いと閉じ込められ、氷漬けにされた妖の群れ。刺すような冷気の元が、ここだったのだ。

まるでこの場のみが冬にでもなったかのような極寒。夏の蒸し暑い熱気に晒されて尚氷は熔ける事無く月の光を反射していた。

「これが、雪華様のお力…………」

「雪華、居るかッ!?」

紅葉さん続き、蔵の中にある階段を下りて行く。階段を一段一段下りて行く度に、どんどん冷気が強くなって行く。そして、階段を下りきったそこに、彼女は居た。

「雪華、」

「もう知ってる。黒巣の叛乱でしょ?」

一言で言えば、彼女は白かった。着物も、髪も、そして肌も全て白い。唯一彼女の桜色の唇だけが鮮やかに、冷気の支配する地下蔵を彩っていた。――そして何より、

「ならば話は早い。行くぞ」

「ゴメ……今夏でしょ?ぶっちゃけムリ」 何より、雪女は床にぐったりとダレていた。

「そんな事言ってる場合かッ!?」

紅葉さんが襟首を掴んで揺さぶるも、雪華さんはぐったりしたままだ。

「ムリなものはムリなんだって…………もう駄目」

「と、雪華様!?溶けています!」

「だからもうムリー……ガクッ」

「ええい、この一大事に使えん奴め!」

ぐったりとした雪華さんを置いて、急ぎ霊緒さんの所へ向かう事にした。

「凍歌様はあのままで大丈夫なのでしょうか?」

「知らん!放っておけあんな奴!糞ッ!今どんな状況かわかっているのか!?」

紅葉さんの怒りは、妖達に発散されていた。軒並み吹き飛ぶ妖の群れ。しかし、今までに立ちはだかる妖は最初襲撃を受けた者を除いて全員が人化出来ない下級妖怪だ。何故、上級妖怪達は出てこない?

同じ疑問に行き着いたのか、たまも訝しむ。が、

「余所見をするな玉部!」

俺は横槍に飛び掛る九十九神を殴り飛ばす。同時、河童の放つ水流を避け、背後に迫る妖猫を蹴り飛ばす。後から後から、本当にキリが無い。

「では、僭越ながら私も一つ、お披露目致しましょう」

季節外れの木の葉が舞った。それは夜風に乗り周囲へ舞い上がり、そして――

「隠神流幻術・霧海迷宮」

傍から見れば、何も起こらなかったように見えた。周りの妖怪達が虚ろな目で呆然と立ち尽くしていなければ、たまが失敗したように見えただろう。

「よし、今のうちに突破しよう!」

雪華さんだけが特殊だったのか、他に合流しようとする気配が無い。わき目を振らずに真っ直ぐと屋敷に向かって走る。

「あの馬鹿のせいで無駄な時間を喰ったからな。合流は諦めて先に玉緒様の所へ向かう。いずれ他の奴らも集まるだろう」

霊緒さん派が何人居るかわからないが、今は本邸に向かうのが先決か。

幻術の範囲外に居た妖怪達が断続的に向かって来るが、所詮は烏合の衆だ。血霞をすり抜ける者は更にその何割か。はっきり言って、手ごたえが無い。ここまで来れば、幾らなんでも紅葉さんすらも眉を顰める。

「順当に考えるなら、霊緒様の方に戦力が集中しているという事か?いや、しかし…………黒巣は一体何を考えている?」

     †      †      †

―本邸・当主私室―

「居るのは判っていますよ。出ていらっしゃいな」

遡る事数刻、障子越しに月影の光のみを光源とした暗い部屋。その中央に座して、障子の先から感じる妖気に向かって語り掛ける。後方には富嶽と鈴鹿の両名が控えており、何時でも動ける状態だ。

何も起きなければそれで良いと思っているが、始まってしまったのならば仕方が無い。

――スッ、と静かに障子が開き、その奥から男性が現れた。月を背に背負っている為貌は見えないが、その体躯から推測するに、黒巣に媚び諂っていた妖だと思われる。

「斯様な夕餉時に訪れるとは無粋ですねぇ。それとも、一緒に夕餉を囲みたい……という訳ではありませんね」

刺客は、無言で凶器を持ち上げた。右手の鋭利な鋏が、ジョギリと重厚な音を響かせる。これならば、容易に人間の首を切断する事が可能だろう。だが、

「残念、ここでお別れよ」

鈴鹿が微笑むと同時、男が倒れた。その背後には鈴鹿が立っていた。

「この者、如何なさいますか霊緒様」

「ええ。とりあえずは捕縛しておきなさい。それと、ありがとう」

鈴鹿は約束通り、その妖を殺めていない。その気になれば、刹那の内にその妖を細切れにする事も出来たろう。

鈴鹿が呪言を呟くと、風の牢獄がその妖を戒めた。

「さて、やっと始まりましたか」

捨て駒がやられたと知ると、隠れていた者達が姿を現した。その数5体。妖気からそこそこの手馴れとわかる。その妖達は各々、己が力を解放しており、いつでも攻めに転じられる状況。

「夏月霊緒。我らの悲願、ここにて達成させてもらう」

「戯け者。させると思うてか」

怒気を込めて言葉を発する。やはり歳を重ねても本質は変わらないという訳か。いざ戦が起こると退魔の一族の血が騒ぐ。

「そうか。ならば、ここで散れ」

刹那、七つの影が動いた。口腔を大きく開けた餓鬼が乱杭歯を、爪牙を伸ばした鬼女がその鎌のような爪を奔らせる。しかし、

「虚け共がッ!未熟ッ!」

その双撃を、富嶽は腕を以って食い止めた。乱杭歯は鈍い音と共に喰らいついたが、鎌爪はゴギン、という音と共に弾き返される。その腕をギチギチと噛み千切ろうとする餓鬼であったが逆に、

「ぐあっ、あがァ!?」

離れない。筋力を膨張させたその腕は丸太の大きさを軽々と越え、そのまま餓鬼を畳床に叩きつけた。

「ぐッ!?ああっ!」

一撃粉砕。まるで神罰のように下された巨魁とも呼べる拳で、餓鬼を挽き潰す。

「流石は霊峰の化身……分が悪いが、これならどうだい!?」

鬼女の鎌爪が、鈍く光を纏う。禍々しい妖気を孕むそれはじわじわと空間に滲み出し、

「猪口才ッ」

そして、富嶽の一撃によって吹き飛んだ。発動する暇も無い、正面からの撃墜であった。

その隣では雷獣と海魔が距離を取って術を放つ。

「鈴鹿山の鈴鹿御前か。一度手合わせしたかったが、まさか斯様な形で叶うとはな」

「かつて日本転覆を企てた貴女が、何故ニンゲンと馴れ合うのですッ!?」

迸る紫電と激流。しかし、

「それは、私が霊緒様を認めたからよ。この人に最後まで付いて行くと決めたから、私は霊緒様に仕えているの」

この風を心地よいと思う。鈴鹿の放つ風は敵に恐怖を、そして味方には追い風となる。

視界の隅で鈴鹿が消えたと思うと、彼女は既に二体の妖の背後に立っていた。

「遅い」

先ほどまで鈴鹿が居た場所でぶつかり合う雷撃と流水。そしてそれは、風の牢獄に囚われ、霧散した。

同時、気を失ったのか二体の妖は倒れた。鈴鹿に掛かれば容易い相手だったのだろう。流石 は風魔。速さにおいて右に出る者が居ない。

本当に頼りになる二人だ。この何十年もの間、幾度となく窮地を共にした仲だ。信頼を通り越して、それは絶対の自信に置き換わっている。だからこそ畳の床に座したまま、二人に全てを託している。

あれはもう、何十年も昔の話になる。まだ私が齢十六の小娘だった頃。その時の自分は世間を知らず、生意気だった。それでもこの二人は、私に従ってくれていたのだ。

初めは、どうせ宗家の時期当主という立場としてしか、私を見ていないと思っていた。しかし、それは違ったのだ。この二人は、私を――夏月霊緒として見ていると知った。

その後、月宮との激闘を潜り抜け、そして消え行く弱き妖の事を想った。だからこそ、私は人と妖が共存出来る世界を目指そうと志したのだったか。

そこまで追想に耽り思う、歳を取ると思い出話が長くなるものだな、と。

二人の戦いを見届けた後、向かい合う妖に視線を向けた。

「き、貴様………・・・」

「傀儡の術には、いくつかの派生があります。1つは、気を糸の形に精製し、操るもの。2つ目は、符や術により首輪を掛けるもの。ですが、我ら《操妖》の夏月宗家の術は別格です。何せ、視界に入る妖すら使役することが可能なのですから。最も、鬼神様や神様の位まで行くと不可能ですが、貴方程度なら十分ですよ。それに、我らは操るだけではなく、」

飛び掛ろうとした相手は、その姿のまま固まっている。

「《葬妖》――即ち、葬むる事も可能なのですよ?ですが、命拾いしましたね。我らの目的は討伐ではなく、貴方達と対等に話し合う事なのですから」

「綺麗事を……現に妖を使役している貴様がどの口を以ってしてほざくか!?」

確かにそうだ。彼も、共存が出来る妖なのだ。今はまだ、わからないかも知れない。だが、いつかは分かり合えると信じている。

だから、その束縛を解いた。発動も解除も、相手が視界内に居れば意識するだけで済む。相手は、自分が解放されたのが信じられないといった様子だ。

「今は黒巣草玄と話を付けるのが先決。引いて下さい」

「何処までも……何処までも甘いな、貴様はッ!」

妖が動いた。真っ直ぐにこちらに向かい手を伸ばす。そして、 『触る事無かれ』

不意に響く声の後、男は白い靄に包まれていた。

「かっ……はあっ…………!?」 『無用心過ぎ』

その靄から声が響く。男の表情が憎悪から苦悶に変わり、そして気を失ったのかだらりと白目を剥いて脱力した。おそらくは気絶したのだろう。

それにより一旦、戦闘は終了した。呆気無い幕切れだったが、これで終わりという訳ではないだろう。 『やられたら、やり返すのが鉄則』

目に見えぬ仲間に感謝の意を込めて頷く。

「ですが、話し合えば分かり合えると、」 『老い先短いのは、皆知っている』

その一言で、富嶽も鈴鹿も止まった。 『だから、焦るのも解る。だけど、焦ったら終わり』

いくら延命や不老の術を使っても、いずれ死は訪れる。

「気付いて、いたのですか?」

皆の顔を見回すと、皆顔を俯ける。

「ええ……」

鈴鹿が、絞り出すように声を零した。 『むしろ気付かない者の方が少ない』

靄から響く声の主は、もう知っているようだ。そうか。ならば話は早い。

「皆。早急に黒巣の叛乱を押さえ、そして話し合いをしましょう。もう、誰も犠牲にならないように」

もう、犠牲はたくさんだ。月宮との戦でどれだけの犠牲が出たか。当時十六の小娘だった私は一族の命のまま月宮の討滅に赴いたが、その行動が果たして正しかったのか、今になっても解らない。だが、一つだけ言える事がある。同じ過ちを、もう二度と繰り返してはいけないと言う事だ。

     †      †      †

―      ―

ここまでは大筋予定通りだが……まさか老いて尚、力は衰えないとは。

流石は〈操妖〉の当代という事か。おいそれと侮る事は出来ないな。

だが、もう遅い。後手に廻っている時点で、それが命取りになる。

問題は何処まで騙し通せるか、だ。

薄々違和感に気付き始めてはいるようだが……

未だこちらの思惑が、真の目的が何処に向いているかまでは解らないだろう。

唯一の不安要素はあの少年だ。霊緒が呼び寄せたあいつは、

わざわざあの少年を呼び寄せるとは思いも寄らなかった。

記憶が正しければ、あの少年は離れに幽閉されていた……

当初の予定ではあの少年の介入は計算されていないが、問題は無いだろう。

付き従うだけの傀儡共も、気付く事は無い筈。

全ては順調。後は、時を待つだけだ。

そう、これまでのように――その時が来るまでずっと…………

     †      †      †

―本邸・当主私室―

私室に飛び込むと同時に目に入ったのは、倒れ伏した五体の妖だった。

「無事……ですよね?」

「ええ。そちらもご苦労でした」

どうやら、呆気無い幕切れだったのだろう。汗どころか息が乱れてすらいない。

妖はそれぞれ、捕縛の術式により捕らえられているのか身動きせずに横たわっていた。

「後からのこのこと、いい気なものよね」 『愚鈍』

二人の言葉が痛いが、最もなので口を噤む。確かに、暢気に夕餉を食べていたせいで妖気に気付くのが遅れたが、何もそこまでいわなくても……と、そう思っても口に出せないのが悲しいところだ。

「お二方、それぐらいにしておいて下さいまし。その件にはたまにも責任があります」

たまの心遣いがこの上なく嬉しいが、今はそんな状況ではない。

ここに来るまでに感じた違和感を、皆に伝えなければ。

「戦闘中、いくつか違和感を覚えました。まるで、本気でこちらを攻める気がないような……」

霊緒さんが頷く。どうやら、違和感を覚えたのは俺たちだけじゃないらしい。

「気が付きましたか。こちらを攻めるなら、数で押しつぶしてしまうのが一番早い方法なのにも係わらず、向こうは戦力を小出しにしているような戦い方です」

「それほど戦力が集まらなかったという考えは如何でしょう?」

たまが訊ねるも、その可能性は低い。

「うむ。その場合ならばむしろ、戦力を霊緒様のみに集中させる筈だ」

「ああ。私たちを足止めする意味が解せぬ」

富嶽さんに紅葉さんもその考えは無いと言う。

「そうですね、この戦い方には憶えがあります……」

唐突に、霊緒さんが呟いた。その場に居た全員が霊緒さんの方を注視すると、霊緒さんは静かに語りだした。

「確かあれは……月宮と戦の時です。あの時、月宮の者は我らと戦うと同時、本山の、」

「あの、霊緒様。できれば短めに……」

たまの進言に霊緒さんは咳払いをして続ける。

「歳を取ると話が長くなっていけませんね……つまり、向こうには何か別の目的があるのですよ。我らを暗殺するのと同じかそれ以上に優先する目的があるのだと思います」

別の目的。当代の霊緒さん以上に重要な事項とは。それは何だ……?

「その一手で戦力が反転するもの、と考えていいだろうな。強いて言えば――強大な戦闘力か、もしくは他にも敵が居る場合か……」

その言葉が、鍵だったのだろう。皆の顔が険しくなる。そして、何の事か解らない俺は、こっそりとたまに尋ねた。

「覚えていらっしゃいませんか?お山には火気を司る天狐様の御社が祀られているのを」

ああ。思い出した。俺に火気の加護を憑けたのも、この霊狐様だった。確か、此処から離れたお山の洞穴に社があった筈。

「それだけじゃないわ。南の飛騨には両面宿儺神と金毛九尾の殺生石。、陸奥には稲荷神社の空孤、天孤様。さらに、北には恐山。他にも挙げれば限が無いわね」

鈴鹿さんの顔も険しいまま、選択肢の羅列は続く。

相手の目的がわからないとなると、こちらは後手に回るしかない。しかし、致命的な状況に陥ってしまえばこちらの負けだ。 『見付けた』

そして、呉葉さんが発した言葉は、冗談のように聞こえた。

「え…………?」 『だから、残党を発見した。四里先、辰巳の方角を移動中』

まさか、そんな。いくらなんでも、呆気無さ過ぎる。しかし、こちらは追うしかないのが現状である。

「呉葉、常時捕捉を。これより追撃に打って出ます。鈴鹿は屋敷に残っている仲間に伝令を。出来る限り残党の追撃の足止めを命じなさい。残りの五人は私と共に」

霊緒さんが膝を叩き、命を下した。凛とした声が、脳髄に直接響く様に発せられる。流石は当代か。その声は、聞く者の拒否を受け付けない何かを孕んでいた。 『御意に』

応える声は寸分の隙無く重なり、当主の命を受け入れる。

同時、呉葉さんの存在感が薄れ、鈴鹿さんも疾風と共に消えた。

「では、急ぎますよ」

霊緒さんの脇を富嶽さんと紅葉さんが隙無く固める。立ち上がった霊緒さんの瞳は、初老のそれではなく、爛々と静かな闘士が湧き上がっていた。

意思を決意のカタチに変え、そして俺達は屋敷から裏手の森へと跳躍した。

―陸奥山中―

森は異界に沈んでいた。墨汁よりも黒き闇が渦巻いており、まるで森そのものが口腔を開けてこちらを飲み込もうとしているかのように。

木々のざわめきも、草木の葉擦れも、全てが不協和音に聞こえる程、濃密な妖気が揺蕩っている。

その中を駆ける五つの影と一つの気配。疾風よりも早く、妖気の出所へ向かうのは退魔を生業とする妖遣いとその孫にあたるモノ、そして付き従う妖が四体。

気によって肉体強化でも施したのか、霊緒さんは常人放れした速度で森の中を駆ける。その両脇を富嶽さんと紅葉さんが固め、少し遅れてたまが付いて行く。さらに、周囲には呉葉さんの気配が渦巻いており、襲撃に備えて皆警戒を怠らない。

そして俺はというと、広い視点で警戒する為に、木々の梢や枝を跳躍して俯瞰視点で移動している。

「う…………ッ」

強すぎる妖気に中てられたのか、少し気分が悪い。そう、例えるなら不味い酒を大量に流し込んで悪酔いしたような。

「如何なさいました、坊ちゃま?」

「いや、大丈夫。なんでもない」

こちらを仰ぎ見るたまに、無理やり笑みを作ってごまかす。

まさしく、この森は異界だ。妖気が充満していて真っ当な物が存在していない。草木も動物も、すべて妖気に中てられている。まるで幽世だ。生きているモノが存在しない。

先に進むにつれ、徐々に妖気が濃くなって行く。視界を遮るような濃密な妖気は、妖霧のよう。これじゃあ、妖が潜んでいても判らない。 『距離二里、坎の方角』

この、呉葉さんの声だけが、距離感すら曖昧となるこの幻霧の中で唯一の頼りだ。

このまま直線か。しかし、もう随分と走っている様に思えるが未だ差は約8キロも離れているのか。相手も高速で移動しているのか。このまま進むと隣県に行き着く筈だが。

「呉葉」

不意に、霊緒さんが足を止めた。

「霊緒様?」

遅れてたまも足を止めた。怪訝な顔で霊緒さんの背中を見つめる。

富嶽さんと紅葉さんは既に、虚空を見上げていた。状況を把握出来ていないのは俺とたまだけのようだ。

「霊緒さん?急がないと……」

「龍侍、玉部……少し苦労をかけますよ」

霊緒さんはただ、済まなそうに呟いた。

「坊、たま。まだ解せぬか?」

富嶽さんは、重苦しく口を開いた。言葉はそれだけだったが、俺とたまが状況を把握するには十分だった。

そう、内通者の存在だ。

「呉葉。気付かないとでも思いましたか?瘴気の源泉から微妙にずらして誘導する技量は目を見張りましたが、失敗でしたね。瘴気故、感知されれば方向の差異が解ってしまう。せめて、偽装があればもう少し時間が稼げたでしょうね」

気取られず広範囲の活動が出来る上級妖怪。確かに、呉葉さんは内通にはうってつけだ。 『それで、どうする』

今は時間が惜しい。それに、霊緒さんは瘴気の源泉と言った。それはつまり、黄泉路が開いているという事だ。

「貴女を倒し、急ぎ向かいます」

そう言い放ち、凛とした目で虚空を射止めた。その先では、濃密は靄が蠢き、妙齢の女性のタカチを得た。 『殺す、と言えないのが貴女の甘さ』

富嶽さんと紅葉さんが拳を握り、構えを取る。遅れて俺とたまも身構えた。そして、

「ッ!?」

「富嶽さん!?」

霊緒さんに向かい放たれた、紅蓮の血霞を纏った紅葉の拳を、富嶽さんは身を呈して己が体で受け止めた。

「ぐぅっ…………」

「済まん……富嶽」

受け止めた富嶽さんも放った紅葉さんも、互いに苦痛に顔を歪ませた。

「打てる手は打つべき」

呉葉さん……いや、呉葉が顔を歪ませて笑う。そうか、黒巣の傀儡術ッ!

「参りました……まさか紅葉にまで」

これには、霊緒さんも顔を顰めた。圧倒的に分が悪い。二人を相手にし、追跡を再会する。幻霧は呉葉を倒さねば晴れぬだろうし、紅葉さんの件だってある。時間が足りない。

「霊緒様」

ここで、今まで静かだったたまが口を開いた。

「ここは我らにお任せを。霊緒様と富嶽様はお急ぎ下さいまし。瘴気の感知は霊緒様にしか出来ぬ事ですし、護衛は必須」

「だが、玉部……」

富嶽さんの不安気な顔に、俺は力強く頷いて返した。

「大丈夫ですよ。修行の成果、此処で示してみせます。それに、たまだって八百八家の長……の孫娘ですよ?そう簡単にやられはしません」

俺達の決意に霊緒さんは暫し逡巡したが、

「わかりました、お願いします。行きますよ富嶽!」

そのまま瘴気の気配渦巻く方角へ疾駆する。

「逃がさない」

「させません!」

立ち塞がろうとする呉葉と紅葉さん。逆にそれを阻む。

「退け」

「なりません」

実体の無い靄の妖、煙羅煙羅に立ち塞がるは化け狸。本来ならばたまには分が悪い相手だったろう。しかし、この二人は同じく術を得意とする術者同士。身体能力の差ではなく、どちらの術が相手を上回るかで勝敗が決する。

そして俺も、樹から飛び降り目の前の相手に対峙する。

「馬鹿弟子、何故富嶽に任せなかった!?言葉は発せるが傀儡にされて体が言う事を聞かん。手加減出来んぞ!」

確かに、ここは他の二人に任せた方が最善の選択だったかもしれない。だけど、それはこの場のみを見た場合だ。あの二人には、この先にも戦いが待っているのだ。それに、いつまでもお荷物にはなって居たくない。いつまでもそんな体たらくでは、俺を鍛えてくれた皆に申し訳が立たない。

「たまにも言われましたが、分不相応ながらも格好付けるのが悪い癖で……一度で良いから、貴女に勝ちたかったのもあります」

無理矢理に唇の端を吊り上げて、笑う。不敵な笑みのつもりが、不恰好な苦笑に為ってしまった。

「莫迦者が……」

そう呟く紅葉さんの唇も、笑みのカタチに弧を描いていた。

人に創られた半端者の分際で、信州の鬼姫に挑むなんて片腹痛いが、今は越えねばならぬ相手。紅葉さんの笑みは心強いものだった。即ち、俺を相対する相手として認めたと言う事だからだ。だから、決意を込めて言い放つ。

「行きます」

「来い。私を越えて行け」

応える声は朗々と、嬉々を孕んで響き渡る。

こうして、霧海に対峙する四つの影は、一斉に動いた。

「たま!呉葉は任せたっ!」

「武運長久を、坊ちゃまっ!」

たまに向かって叫ぶと同時、紅葉さんに向かって跳躍した。魔力を肉体に通し、肉体強化を施す。

――そう、俺の利点は魔術を行使出来る事。夏月の火術では紅葉さんに相性が悪過ぎる。

夏月家は代々、火気を司ってきた家系だ。故に俺にも火気の加護がある。夏月家は、子供が生まれるとお山の空狐様に御目通りさせる風習がある。それによって夏月の者は火術を使う。妖遣いの業とは異なる、後付けの技だ。

魔を焼き尽くす破魔の炎はしかし、紅葉さん相手には通じない。炎を放っても血霞によって遮られてしまうのだ。

紅葉さんの攻撃方法は嫌と言うほど熟知している。血霞による広範囲、高威力の範囲殲滅。まともにやり合ったら勝ち目は薄い。

ならば、高速の奇襲で一気に距離を詰めて最大の一撃を喰らわせるしかない。

一歩で5メートルの距離を縮め、二の足で紅葉さんに肉薄する。魔力を通して強化した肉体は、一瞬にして距離を詰める事を可能とする。ブレる視界の中で紅葉さんの姿のみを一点に見つめる。その僅かな時間の中で、拳に力を――魔力ではなく気を――込める。術式は討魔の式の亜種。一撃で意識を刈り取るしか勝ち目はない。

拳を握り、紅葉さんの眼前に迫る。そのまま、その拳を振り上げ――

紅葉さんから見れば、俺が消えたように見えただろう。

目前にして無理矢理、横にステップ。体を反転させつつ更に一歩踏み出し、紅葉さんの背後へ回り込んで拳を放つ。思惑通り、相手が反応出来ない速度での、死角への一撃。

時間にして刹那の奇襲はしかし――いや、やはりと言うべきか。紅葉さんの血霞によって阻まれていた。

反応出来なかったのではない。する必要が無かったのだ。

「くそっ……」

肉体を強化したまま地を蹴り、距離を取る。直後、先程まで居た場所が紅蓮に包まれた。爆炎は断続的に続き、俺を追う。一歩でも足を止めれば、少しでも速度を落とせば、あっと言う間に消し炭の仲間入りだ。

爆炎によって森が炎上する事はなく、むしろ爆砕され消し飛んでいる。

「馬鹿者!勝算が無い内に突っ込むなッ!」

怒号を飛ばす紅葉さんの口調は荒くとも、端々が乱れていた。傀儡の術に抗う為か、必死に抵抗しているのだろう。

流れる風景は最早残像の如く。紅葉さんの射程範囲外に出た頃には、両足に無理な負担が掛かりすぎてガタが来ていた。

距離を詰められる前に再び跳躍しようとしていた俺の視界の先に、紅き閃光が煌いた。

「退けッ!」

悲鳴のような紅葉さんの絶叫に、俺は反射的に身を横に投げ出した。同時、その横を紅き閃光が通過し、

「づあっ!?」

右腕が巻き込まれ、肘から先が半ば炭化していた。

転げそうになる体を、両足に力を込めて何とか留める。更に、その先で紅き閃光が見えた。

確実に限界へと近づく両足に、更に魔力を込めて地を蹴る。凝縮され、照射される血霞の閃光は俺の脇を通り過ぎて木々を穿ち、闇を焼いた。

再び、逃走劇が始まる。一歩でも足を止めれば、少しでも速度を緩めればそれが敗北に繋がる。次々に照射される閃光を掻い潜る。決して相手に狙われないようにフェイントを織り交ぜ、直線的な動きはしない。かと言って、動きがパターン化しないように足裁捌きは不規則に。

閃光が瞬く度、突き刺すような殺意が身を凍らせる。絶望的なまでの妖気の具現。その、ゾクリとするまでの悪寒のお陰で、今まで避け続けられたのかもしれない。

瞬き、悪寒を感じ、そして避ける。その応酬を幾度繰り返しただろうか。両足は既に限界を超え、最早魔術によってのみ支えられている。

幾度目かの閃光を再び飛び退いた、まさにその時、

――ガクンと、足から力が抜けた。

見れば、酷使し続けた片足の筋肉はズタズタに裂けていた。

「馬鹿!足を止めるなッ!」

「坊ちゃま!?」

紅葉さんとたまの悲鳴が、同時に木霊した。

「くっ……」

残った片足と片腕にありったけの力を込めて、飛び退く。遅れて地面に突き刺さる紅き閃光。

――しかし、

ゾクリ、と今までと比較にならない程の妖気が、絶望的なまでに渦巻いていた。まるで、空間そのものが凍てついたような悪寒が、重圧となって身を支配する。

身を投げ出したその先で顔を上げると、眼前の景色は全て紅に染まっていた。濃密な霧に代わり、鮮血のような靄は俺を取り囲むように森の一部を塗り替えていた。

「馬鹿弟子ッ!?」

紅葉さんの悲鳴と同時、その靄が一斉に爆散した。

―枯葉妖靄―

森の一角では、妖靄と枯葉がより一層渦巻き、一寸先すら見渡せぬ有様だった。 『退け、狸』

「いえ、なりません」

再び消えた呉葉に、たまが立ち塞がる。靄と霧とが混じり、姿が見えぬ筈の呉葉の気配を、たまは捕捉出来ていた。

「何故、争うのか聞いてもいいですか?」 『愚問。我らの悲願の為に』

「理解し合う事は出来ぬのですか?」 『それを放棄したのは人間が先』

呉葉の言葉はどこまでも冷酷で、突き放すように応える。

「どうしても、」 『引く事は出来ない』

たまの言いたい事が解ったのか、呉葉はたまの言葉に先を重ねた。

「黒巣の悲願とは叛逆の事ですか?何故この方角へ、」 『無駄話は終わりだ』

相手の本意を知る事が叶わぬ内に、呉葉が仕掛けた。濃密な靄が更に凝縮し呉葉の姿が掻き消える。と同時、たまの視界が霧で埋め尽くされた。

「眼眩まし如きで一体何を――」

たまにしてみれば眼眩ましなど全く意味の無いものである。幻術遣いは虚像を見る。故に視覚に頼る戦い方はせず、常にその奥を見る。即ち、幻術遣い相手に生半可な幻術は通用しない。ましてや、たまクラスの幻術遣い相手に眼眩ましなど無意味である。

にも係わらず、呉葉はあえて霧を撒いた。ならば、霧を撒く(・・・・)という行為自体の意味があるはず。

たまは木の葉を取り出し、己の周囲に漂わせた。幻術の効果よりも、次に呉葉がどう動くかの方が今は重要である。

幻術とは、簡単に言えば己のイメージを相手に植え付ける事である。全てを欺き、実を虚とし、相手の精神を支配する事こそが本質。幻術師同士の戦いは、いかに術を巡らせ相手を支配下に置くかが勝負の鍵となる。

たまは呉葉の次の手を迎撃する形で待っていた。木の葉は術を防ぐ事より、呉葉の本命の術を切り崩す事に特化した術式だ。

が、しかし。呉葉はたまに仕掛けなかった。否、仕掛ける気など無かったのだ。なぜなら、すでにたまは呉葉の幻術に掛かっていたのだから。

霧が晴れ、たまの視界が戻る。

「これが……」

世界は一変していた。霧に沈む森の姿は無く、そこには――

「これが、呉葉様の世界ですか」

靄が立ち込めていた。今までとは何も変わらない、不鮮明な視界。しかし、たまには決定的な違いが解った。

靄が晴れて行くその先に、呉葉は浮いていた。彼女は悠々と腕を組み、嘆息するように呟く。 『狸風情に本気を出しても仕方なかった』

槍のように尖った山が乱立していた。眼下には一寸先も見えぬような靄、そして頭上には緞帳のように全天を覆う雲。

それらの風景はまるで、大陸の秘境に迷い込んだような錯覚を植えつける。 『貴女は既に、私の支配下』

槍山の頂に佇むたまは険しい顔となる。この風景が幻術だと解っていながらも、脳がそれを否定する。自分は霧の森に居て、幻術に捕らわれているだけ。その筈なのに、一歩足を踏み外してしまえば、永遠と落ち続けてしまいそうな。

それは即ち、完全に呉葉の幻術に呑まれてしまったと言うこと。

「しくじりました。眼眩ましは不意打ちの布石と思っていましたが、更に自分の術を多重展開する為とは。いやいや、呉葉様も流石といった所です」 『自分の有利な領域に引き込むのは定石。一つの読み違えが仇となるのが幻術戦』

ぐにゃりと世界が歪み、呉葉に向かって枯葉が舞うが―― 『無駄』

呉葉が腕を振るうだけで、枯葉は掻き消えた。呉葉固有の幻術世界においては、森羅万象の全てが呉葉の思い通りとなる。同時、術の行使すらその予兆を読み取り、術式を崩せば良い。

大方、枯葉を媒体とした幻術だろうと判断した呉葉は、媒体を先に崩す事でたまの幻術を崩す。精神汚染も、進攻も出来ないようでは二流も良い所だろう。 『化かす事しか出来ないのが、狸の悲しい所か』

哀れむような口振りと言うよりは、むしろ嘲る口調で呉葉は眼下のたまを見下した。それを見て、たまは溜め息を零す。

「化かす事こそ、幻術の真髄ですよ?精神を侵すという事は即ち、相手を化かせぬ者が無理矢理、己が術下に敷くという事。精神汚染を企てる者こそ、三流も良い所です」

反論ではなく、相手を諭すように語るたま。呉葉の世界に捕らわれていながらも、未だ笑みを崩さず槍山の頂に佇むのみ。 『状況は解っている?この世界に居る限り、貴女の精神は私の思いの――』

「だから、それが三流たる所以なのですと何度言えばお分かりになりますか?坊ちゃまでさえもう少し物分りが宜しゅう御座いますよ」

僅かながらたまは眉を顰め、呉葉を諌めた。 『何を、』

優位に立っていた筈の呉葉も、たまの様子に違和感を覚えた。この状況で術を使うどころか、焦りすら見せぬと来れば、何かある筈に違いない。

呉葉が腕組を解き身構える。それと同時にたまは、片腕で印を結び、木葉を頭に載せた。

「本当の幻術は、相手に気付かれぬように行うものですよ」

常に閉じられていたたまの糸目が開く。その奥、琥珀色の瞳が呉葉を縛る――

「魅せましょう、幻術の真髄を――」

そう言い残し、たまが呉葉の世界から消えた。 『なっ、どこに……』

驚愕の理由はそれだけでは無い。呉葉の世界が急速に縮小して行く。渦を巻くように歪む世界。幽玄の谷も、槍の頂も、曇天すらも渦巻き、溶け合い、一点に集まり行く。

気付けば、呉葉は屋敷の大広間に佇んでいた。

「お目覚めですか、呉葉様」

その向こうに、佇む影。頭に木葉を載せたたまは、今では狸の耳と尻尾を生やしていた。

戦闘開始から数分も経っていないどころか、森にすら向かっていない。初めから、たまの幻術に化かされていたというのか。

否、断じて否。 『これが玉部の幻術』

固有世界の支配者たる自分に術を掛けられるとは、その技量は感嘆に値する。先程散らした枯葉か、この世界に入る前に漂わせた木葉か。何れにせよ大した技量だ。が、 『魅せると大見得を切ったは良いが、所詮はこの程度の児戯』

掛けられたと認知し、そして破る術さえ心得ていれば突破は容易。眼を閉じ、己の意識を自己の中へと潜らせる。認識ではなく、自己と世界の境界を同調させる事によって現実世界に回帰する。

眼を閉じる刹那、たまの笑みが見えた気がした―― (世界は唯一つ。故に、私の居場所も唯一つのみ)

感覚を遮断し、精神を閉じる。自己の中へと潜る。自身を無に。ただ、世界を識るのみ。偽りの世界ではなく、真の世界へ。

眼を、開く。そこには元の通り、霧に沈む森があった。天に月も夜半も無く、霧に遮られていた。

なんとも無い、しかし違和感が残る風景。 (気配が、無い)

まさか…………まさかこの世界さえも、たまの――

「おわかりになりましたか?幻術の真髄が」

姿無き声が響く。周囲に索敵用の靄を放っても気配を感じる事は出来なかった。しかし、たまの声は朗々と響く。

「幻術を掛けられたと悟られた時点で、幻術師として三流なのですよ。本当の幻術師は、幻術を掛けた事すら気付かせないものです」

呉葉に先程のたまの笑顔がフラッシュバックする。邪気を孕んだ、歪んだ笑みが。

再び幻術を解く為に意識を沈めて行く呉葉の頭に、たまの声が残響した。

「ヒントを差し上げましょう。さて、何が真実で何が虚実でしょうか。ごゆっくりお考え下さいまし」

それはありえない世界。現実世界と同調させて回帰する呉葉。それすら欺く幻術とは果たして幻術と言えるのだろうか。現実すら欺く幻術。それは現実と何の遜色も無いのと同義。

無人の屋敷を、抜ける。

霧の無い森を、抜ける。

変わらぬ朝を、抜ける。

偽りの世界を、抜ける。

呉葉は、世界の否定と迷走を繰り返す。おそらく、延々と、永遠に。

「さて、坊ちゃまの方へ参りませんと」

呉葉に掛けたたまの幻術は、錯覚を見せるのでもなければ、感覚器を支配するのでもない。それは、白昼夢のように、現実との境界を曖昧にする優しき幻。境界の認識を曖昧にするという事は、即ち意識が蒙昧となっているという事。正常な判断も出来ず、朦朧として脳を眠らせる。

幻術師が必ず幻術を使うとは限らない。幻術を使うと思い込んだ時点でもう、呉葉の負けは決まっていた。化かし合いにおいては、狸に一日の長があったのだ。

「それが夢と気付けぬ限り、幻術破りでは現実世界に回帰出来ませんよ。そのまま、永遠にお休みになられてはいかがです?」

夢と分かっていても、果たして抜け出せるかどうか。夢の中で夢と分かっていても、抜け出す事は難しい。いずれ訪れる朝に任せなければ夢は覚めないのと同義で、たまが術を解かない限り、呉葉は夢から覚める事はない。

たまは己が弟も同議たる龍侍の元へ向かう為、踵を返した。

恐らく、龍侍では紅葉には勝てない。負ける事は無いとしても、龍侍が紅葉に勝てるかと聞かれれば、難しい所である。ここは急いで加勢を…… ――刹那、視界の隅を紅い閃光が埋め尽くす。続く爆音と、破砕の轟音。

「坊ちゃま!?」

着物の裾を翻し、たまは龍侍のもとへと駆け出した。

―黄泉路―

そこは暗く、冥く、そして昏かった。蒙昧とした世界は闇ではなく、それを遥かに上回る禍々しさが支配していた。

根の国に至る道。瘴気は絶え間無く噴出し、その瘴気に中てられた生き物は悉くが息絶える。

「あと少し……あと少しで我等の悲願が達成される」

その黄泉路が開く泉の畔に、黒い影は平然と佇んでいた。湧き出る瘴気により視界は歪み、森に漂う白い霧よりも薄く、しかしその黒い霧はごく少量ですら命を蝕む。地を這いながら溢れる瘴気に、集まった面々は苦しげな面持ちで黒い影を遠巻きに眺めていた。

「これで、我等は報われる……」

先程声を零した女が再度呟いた。己が主をその目に移し、自我すら危うく瘴気が湧き出る泉を眺める。そこに集まった者達は、これから起こりうる事象に対して狂信的なまでに陶酔している。

影は黄泉路を開いていた。黄泉の国や、根の国に直接黄泉路を繋げ、境界を崩そうとする。既に入口は出来上がっていた。後はこれを広げ、堕とされた神々や追放された妖を呼び出す。

その時であった。女が振り向き、悲鳴のような声を上げた。

「霊緒が来ますッ!」 (瘴気によって気配が分からなかったか。その上こちらとは違い、向こうには瘴で居場所が知られてしまう。が、元より覚悟の上だ。主は黄泉路を広げ続け、我らはそれをお守りする)

そして、湖畔の反対側に、二つの影が現われた。

「よもやこれ程とは……」

口数の少ない富嶽が小言を零す程、その場は絶望的だった。渦巻く妖気と瘴気、湖畔の反対側に集まる妖怪達、そして、黄泉路を広げる――

「なっ……こ、子供!?」

霊緒が愕然として眼を見張った。叛乱を企てていたのは黒巣草玄ではなかったのか?混乱する霊緒を前に、その少年は黄泉路を開きながら言った。

「お久しぶりです、霊緒さん。俺の事を覚えてくれていますか?」

「黒巣……皇崇(きみたか)……」

黒巣草玄の息子、皇崇。その表情は、遠い記憶の彼方と一致する、氷のような貌。

「なぜ貴方が此処に居るのです!? 草玄が首謀なのでしょう!? 草玄は何所です!?」

少年は、表情を一切変えずに言い放った。

「ジジイ、首魁には死んでもらったよ。今時、権力がどうの、身分がどうのなんて古い考えだ。これはただの叛乱じゃない、革命だ」

「妖を操っておいて、何が革命かっ、小僧!」

富嶽が怒気を孕んで喝を飛ばすも、少年は眉毛一つ動かさなかった。

「紅葉の事は謝罪する。だが、他の皆は自分の意志で参加してくれている」

「馬鹿な――」

と、霊緒は思った。しかし、集まる妖達の眼は陶酔していながらも、輝きを失っていなかった。それはつまり、この少年に自らの意志で集ったという事。

「皇崇、貴方は一体、何をしようとしているのです!?」

その時初めて、少年の顔に表情が出る。それは、誇りと、憎悪の表れだった。

「俺たちの、異能と妖の存在を――世界に知らしめる」

―過去の追想と決意―

分家と呼ぶ呼び方は、実際の所正しくはない。それは平安の頃――退魔守護職が帝の命により発足した当時――妖怪退治の中心となった家以外の、後発の退魔師をまとめて呼ぶ総称であり、現在では違う。

退魔守護職は神殺しの二家を筆頭に、五行を統べる五家に加えて十二の宗家を含めたそれらを称して退魔守護職と呼ぶ。分家とは、それら一つ一つの家の亜流の事であり、黒巣が夏月の分家というのは間違いないが、古い者は未だに十二宗家を分家と纏める事もある。

これら異能の一族というものは、能力を代々伝えて行く事に精を注ぐ。異能を持ったばかりに、一般社会の溶け込めなくなった一族には、異能を活用する以外に生きる術は無いと言っても過言ではない。そして、それはつまり、古臭い風習をも伝えているという事に他ならない。

それは、ウチ――黒巣の家でも例外ではなかった。

妖は道具であり、人間はそれを統べる者。昔から、それが常識だった。

人格なんて関係無い。妖が黒巣の人間に逆らうなんてもっての外。使役していたのが中級妖怪ばからだったのと、黒巣の術式が強固なものだった事。それによって、妖遣いの里では妖の立ち位置は最下層と決まっていた。

そして、道具の意志など関係無く、

――父親が俺を孕んだ道具に堕ろせと言ったのも、当然の事だった。

過程は省く。俺が生きているという事は、母親は堕ろさなかったという事だし。

そのかわり、母親は死んだのだが。

無理な使役に暴行。それだけで、母親は呆気なく逝った。妖といえども、出産には耐えられなかったのか、それとも出産が発覚して粛清されたか。

そんな事はどうでもいい。力在るものが世を統べるのが常ならば、何故妖は人間の影に隠れ、夜の闇に紛れたのか。

今の世界が影の上に成り立っているのならば、俺はその影を払いたい。妖が身を隠さなければならない影を。

人に、我らの存在を知らしめる。我等は絵空事でも何でもなく、お前たちの影に生きていると。

故に、旗印を立て我等が蜂起する。なれば、各地の仲間も集うだろう。滅ぼされかけている弱き妖達の生きる術がないのなら、我等がその場所を作ろう。

かつて、月宮が目指したように。

退魔の一族によって、庇護の無い弱き魔は滅ぼされかけている。妖は最早、人間に太刀打ち出来ず、夜の影に生きるしかない。だから、我等は妖の居場所を作る為に戦う。旗印を掲げ、人間達に対して名乗りを上げる。我等もまた、生きているのだと。

なんて、初めはそんな大層な理由から半旗を翻した訳じゃなかった。人間全てが憎い訳でも、虐げられる妖を憐れむ訳でも。 ただ、ジジイが憎かっただけだった。仲間に報いたかっただけだった。

そしてただ、人間共に思い知らせたいのだ。長きに渡る異能と妖の争いを。

いつからだろうか、人が憎くなったのは。

共生を謳いながら黒巣を裁かなかった本家か。

戦で見た、月宮の尊い生き方を知った時か。

それとも、あの時か――

せめて、もう少し早く霊緒さんが改革をしていてくれれば――と思うのは他力本願なのだろう。しかし、もっと早ければ救えた命があったのも事実。

根拠の無い希望を見せられ、無駄な期待を持たせられるのならば、いっそ希望が見えない方が良かった。

だから、我等が試す。

真に、夏月霊緒に妖の未来を担う覚悟があるのかを。

そして、人間は妖を受け入れる事が出来るのかを。

認めるのならば、歩み寄ろう。しかし、怖れ、否定するのなら――

戦おう。この世は、果たしてどちらの物なのか。

人か、魔か。

問は投げかけた。だから答えろ、夏月霊緒。

―反撃の狼煙―

鈍い鈍痛が、全身を覆っている。視界が歪み意識は朦朧とする中、諤々とする四肢に活を入れて立ち上がろうと足掻く。

どうやら先程の爆発でかなり飛ばされたらしい。水の流れる音が聞こえるという事は、山中にある川の傍か。結構な距離を吹き飛ばされたな。

なんとか立ち上がろうと四肢に力を入れようとするが、全く動く気配が無い。傷は再生されているのだが、体力が戻っていないのか。もし俺が人間だったらとうに死んでいただろう。間違い無く、紅葉さんは本気だ。あの紅の血霞を、どう攻略すればいいのか。

「龍侍、無事だったのですね!?傷だらけのあなたを見て、もう駄目かと思っていたのですよ!?屋敷では鈴鹿達が戦っていましたし、どうすればいいのか分からなくて……」

「は、橋姫さん……」

橋姫さんが居るという事は、渡霊橋の辺りか。紅葉さんと闘っていた場所からかなり離れてしまったようだ。

「橋の下に居れば、私の加護で気配を悟られる事はないわ。せめて少し休んで行って」

橋とは、あの世とこの世を繋ぐものと考えられており、橋姫が宿る橋はこの世から切り離されている。今の状況では、傷の治癒と体力の回復に努めるのがベスト。だが、

「いえ。大見得切った手前、このままむざむざ引き下がれませんから……それに、たまだって闘っているんです。俺だけ休むには、いきません……」

そう言ったはいいが、身を起こすだけで精一杯なのが現状だ。

「そんな体で紅葉と闘うなんて無理です!ただでさえ紅葉は名高い鬼。龍侍では勝てる見込みなんてありません」

そこまで言われると立つ瀬もないが、倒さなければこちらが殺られるのだ。

「それでも、戦わないといけないんです」

どうやってあの血霞を掻い潜るかが問題だ。まさか、自動防御まで備えてあるとは思わなかった。術でも、力押しでも、速度でも駄目。ならば、どうするか……

「紅葉に勝つなんて無理に決まっています!」

勝つのが不可能なら、他に方法は無いのか?力が無いなら頭を使え。

血霞は全方位広域爆散、収束射出が可能。それに加えて自動防御まである。最大効果範囲は半径30メートル。

対して、こちらの装備は相性が悪すぎる。どうやって紅葉さんを攻略する?

高速での奇襲は自動防御で防がれた。しかし、真正面から向かってもいい的だ。

何より、紅葉さんを倒せるだけの手立てが、俺には無い。だが、そんな弱音を吐いている場合じゃない。今の装備で何が出来る?火術は紅葉さんには通用しない。魔術も遠距離からでは効果が薄いし、近距離挌闘は言うに及ばない。

あの血霞を無力化するには――

「あ…………」

あった。確証は無いし、通用するかもわからないが、試してみる価値はありそうだ。

俺だから出来る事。俺にしか出来ない事。

「橋姫さん、行って来ます」

踏み出す一歩も重く、思いを覚悟に変えて歩き出す。荒々しく濃密な妖気が流れて来るの方角へ。

「ちょっと、お待ちなさい龍侍!貴方、傷は…………」

橋姫さんの声に応えず、再び両足に魔力を通す。

「傷が……無い……?貴方、一体、」

―緋天、蒼炎―

「莫迦者が。何故戻って来た」

紅葉さんは苦しげに息を吐きながら、しかし霞を精製し始める。

「苦しそうじゃないですか、紅葉さん。そんな紅葉さん、見たくはなかったので」

紅葉さんはいつも、胸を張って堂々と、そして思いやりを忘れずまっすぐに立っていてくれなければならない。そんな、仲間に手を挙げて苦しむ顔は見たくはないのだ。

格好付けたかっただけかもしれないし、何かをこの手で為したかっただけかおしれない。ただ、今やるべき事は一つ。紅葉さんを超える事。

「避けろッ!」

言われるまでもなく、辺りに漂い始めた血霞が焔を上げる。それを避ける為、右に飛び退く。それを皮切りに、紅葉さんを中心とした円を描くように疾走する。

「ええい、先ほどと一緒で避けるだけではジリ貧になるだけだ!策が無いなら出て来るな!」

紅葉さんの怒声を無視して、周囲を観察するのに徹する。木々の影が高速で横切る視界には、一面の霞。紅い霞は同じく、紅葉さんを中心として渦を巻く。

試しに、一歩でも距離を詰めれば即座に霞が爆散する。それを紙一重で避けつつ、思考を巡らせる。

唯一の救いは、紅葉さんが動かない事と、攻撃が単調な事か。紅葉さんの抵抗の甲斐あってか、それとも黒巣の術の限界か。もしも紅葉さんが万全だったなら、既に初撃で沈められていたに違いない。

「術式追加、加速累乗」

更に肉体強化の魔術を重ね掛けし、霞の渦へと飛び込む。

かなり無理な負荷が体にかかっているが、走る速度は爆発の速度を超えている。爆発の連鎖を引き連れながら、視界がブレる速度で紅葉さんに向かって行く。

血霞は問題ではない。先の敗因はあの障壁だ。ならば――要は、あの障壁さえ突破すれば道は見える筈!

無論、向こうもこちらの手は読んでいる。しかし、今回向こうは傀儡で操られ、自動的に迎撃するしかない。

血霞を避けながらも、自分の意識を集中させていく。自分の中にある異なる力を個別に形作っていく。

魔力を使う魔術と、気を遣う火術では基礎から異なるものだ。燃料を消費して効果を出す点で言えば同じかもしれないが、工程はおろか理論の時点で異なる。

夏月家では、妖を遣う術とは別に、火を操る術を代々伝えている。無論、俺いも火術は使えるが、それとは別に魔術も使う事が出来る。その異なる業を、同時に行使する。

右腕に気を集める。気は言わば生命エネルギーのようなものだ。そのエネルギーを変化させる。作りたい形、起こしたい事象をイメージし、そして具現化する。体内から発し、右腕に集めた気を、剣の形にイメージする。あとは、そのまま形作ればいい。

対して、魔力は自然エネルギーか。気と同じく自分の内から抽出する他に、自然から魔力を取り込む。取り込んだ魔力を左腕に通し、既存のプログラムを起動させるイメージ。魔力を、機動したい術式の原動力とし、機動させる。あとは、それを発動させるだけ。

方や、術式を起動するイメージ。方や、形を作るイメージ。

右手に炎の剣を作り出す。指で挟み込むように計四本。火の属性の妖たる紅葉さんに火術は効果が薄いが、狙いは別にある。

小出しでは仕留められないと踏んだのか、周囲一帯全てに霞が捲かれる。まるで、この森全てが血に染まったかのような光景。紅の血霞はやはりと言うべきか、紅葉さんの周りにだけ空白が出来ている。

霞が今こそ爆発するという時、さらに加速の術式を追加する。

限界を超えた加速は、莫大な付加となって両足を襲うが、その激痛を無視して、

「疾ッ!」

加速の力を片足に集め、地を蹴る。周囲の風景すら認識出来ない速度での、前への跳躍。一瞬前まで俺が居た場所で爆発が起こるが、既に俺は紅葉さんに肉薄していた。

右手の剣を突き出す。最高速度での刺突は、計算通り霞のい障壁に阻まれる。

取ったッ!

右手の炎剣を全て血霞の壁にぶつけ、そして爆発させる。血霞の爆発を、炎剣の爆散で相殺する。そこに、ほんの少しではあるが隙間が出来る。拳一つ分の、ほんの小さな空間ではあるが、今はそれだけで十分ッ!

「術式解放、氷の華」

冷気系魔術、氷の華。それは、周囲の熱を奪い尽し、花咲くように氷塊を築く術式。魔術において既存の術式はあれど、基本的には自分なりに改良や調整、改変を行うものだ。氷の華は、熱を奪うだけではない、対象を完全に氷結させ、拘束を主とする術式。

刹那の交錯。障壁の向こう間隙より驚いたような紅葉さんの視線が見た。その間隙目掛けて俺は、左拳を紅葉さんの鳩尾に叩き込み、左腕の魔術式を解放した。

勝った――。氷系統魔術の直撃を無防備な状態で食らえば、火系統妖怪の紅葉さんはただでは済まない筈。

氷の華は紅葉さんの腹部で咲いている。後は、黒巣の傀儡術を取り除けば紅葉さんを救える。

安堵の溜息を漏らし、紅葉さんに手を伸ばした刹那、

紅葉さんの腹部が爆縮した。

「なっ……にぃ――」

爆発と同時に中心部へ収束する爆炎。氷の塊はおろか俺の左腕ごと、紅葉さんの腹部が爆ぜる。

「ガッ、はぁっ……」

地面に引き倒れる。炭化どころではない。左腕の肘から先が無い。左腕が吹き飛ばされる激痛に、視界がスパークし、意識なんて吹っ飛びそうになる。

自身の体を霞と同化させて力を使ったのか!?

「避けろっ!」

悲痛な叫びが木霊する。その叫びに反応する間もなく、俺は霞の爆発によって吹き飛ばされ、地面を転がる。近距離での爆破で、全身は重度の火傷になっている。

くそっ、行けると思ったのだがまだ足りなかったか。

傷の治りが遅い。加速と止めに魔力を注ぎ込み過ぎたせいか、肉体再生に割ける魔力が不足しているのか……

「立て、立ってくれ……」

再度、紅葉さんの悲鳴地味た怒号が飛ぶ。しかし、

爆発。吹き飛ばされた先で、再度爆発。

「龍侍ッ!」

未だ、至れないのか。

痛みは既に麻痺しており、意識は不思議と客観的なものになっていた。吹き飛ばされる自分を、もう一人の自分が見下ろしていた。

あの血霞は文字通り、紅葉さんの血を媒介としている。ある程度精製が出来るとはいえ、このままでは俺だけではなく紅葉さんも危ない。

魔術が使えるから何だ。肉体が再生するから何だ。俺では、何も出来ない。小手先の技術や、様々な手数で補っても、結局元の自分は弱いままだ。この手では、何も為せない。

また、失うのか。また――

ゆっくりと、紅葉さんが歩み寄って来る。おそらく、止めを刺すために。既に両腕には霞が渦巻いていており、あとはそれを放つだけだ。

「龍侍。一つ、お前に教えておく」

その時放たれた声は、場違いに聞こえた。先ほどとは違う声色。紅葉さんは、こちらを見極めるかのような視線を向ける。

「自分で気づいて欲しかったのだが、まだ解らんか?何故、夏月家が古くより退魔を生業としてこられたと思う。火術が使えるだけで戦えると思うか?妖遣いの技が使えるというだけか?違うだろう」

諭すような、何かを伝えるかのようなその口調は、まるで、

「魔を浄化する事こそが夏月家の本質。ただの火ではない。凶祓(まがつばら)いの炎こそが葬妖の神髄」

何を、なんでそんな、

「お前なら破魔の炎を使える筈だ。破魔の炎ならばこの身を焼き尽くせる。そういうものなんだ。凶祓いというのは。魔を問答無用で滅する事が出来る。だからこそ、夏月家は退魔の一族として永らえてこれた」

高位の破壊力を有するくせに、不殺の信念を貫いて。

「もういいんだ……私の事は気にするな」

霊緒さんの理想をだれよりも望んでいたくせに、真っ先に自分を犠牲にして。

「己が内に問いかけろ。自分の血を信じろ。そして、」

だれよりも強いくせに、弱い俺なんかのために。

「私を殺れ」

弟子を殺めるなら、いっそ弟子の手にかかってなんて、

――巫山戯るな。

ありったけの力を込めて、地面をぶっ叩く。

このままだと俺が死ぬから、紅葉さんを殺めろだと?

俺じゃ勝てないからなんとか凶祓いの力だとかを覚醒させろって?

それで、のうのうと紅葉さん見捨てて霊緒さんの所に行けって?

都合の良い事ばっか言ってんじゃねえ!

「何言ってるんですか?そんな簡単に覚醒出来るって?そして、簡単に紅葉さんを殺せるって?馬鹿言わないで下さい」

安っぽいお涙頂戴だとか、犠牲だとか、そんなのお呼びじゃねぇんだよ。

真の力だの、覚悟だのは、そんな簡単じゃない。

そんな、安易に命を捨てるなんて事、俺は許さない。

「俺がそんなに簡単に死ぬと思っているんでしたら、それは侮り過ぎです。俺がそんなに簡単に強くなれると思っているんでしたら、それは買い被り過ぎです。俺が、そんなに簡単に紅葉さんに手を上げれると思っているんでしたら……馬鹿にし過ぎですッ!」

紅葉さんらしくないにも程がある。こんなの、三文小説でも流行らない展開だ。人はそんなに簡単に強くもならないし、覚悟なんて決まらない。誰かが誰かの犠牲になるなんて、そんなの許される事じゃない。

それに、情けない話だが、死ににくい事だけが取り柄だ。勝てないからと言って、それが死に直結する訳じゃない。

奇しくも紅葉さんの一言で意識が覚醒したのには変わりはないのだが。

「弱気だなんて紅葉さんらしくないですよ。まさに、鬼の霍乱ですね」

さっきの紅葉さんの話から、ヒントは得た。発想は合っていたんだ。問題は方法が違っていただけ。

イメージさえ出来れば、あとは形にするだけだ。問題は実行に移すのが難しいという事。

〈浄炎〉

異なる業で、異なる術を使い、拘束し、魔を浄化する。そして、殺してはならない。

「ははっ、無茶な要求だ。……でも、無理じゃあない」

イメージするのは、炎。しかしそれは焼き尽くすものではない。むしろそれとは正反対の、蒼い炎。

そして、それは魔を滅する破魔の炎ではなく、

「魔を浄化する退魔の炎」

イメージは出来た。あとは、これを実現し、通用するかが問題だ。だが、

「甘ったれた事言ってんなよ、俺」

今出来ないでどうする。

今やらないでどうする。

もう何も失いたくないのなら、今此処で何かを為しやがれ!

「行きます!」

真正面から紅葉さんに言い放つ。都合よく強くなれる訳でもないし、仲間が助けに来るという都合の良い事も無い。俺がやらなきゃ一体誰がやる!?

紅葉さんは神妙な顔を消すと、見ているこっちが気持ちいいぐらいの、最高の笑みを浮かべた。

「ああ、来い!」

同時、二つの影が月明かりの下で疾駆する。夜風の寒さが吹き飛ばされるような熱気と共に、影は交錯する。

それは闇もまだ深く、煌々と銀月が照らす夏の夜。

―開戦の狼煙―

「戯け者共がッ!」

富嶽が吠えた。

「いかな理由があろうとも、貴様らの行いは武力制圧に過ぎんではないか!」

傷付けられたから傷付け返す。言わば、奴らが言っているのはそういう事だ。

「霊緒様は、己を滅して共生に従事してこられた。今不用意に世間に妖の存在を知られては、必ず混乱が生じる。いや、混乱どころか戦すら起こるだろう。なればこそ、霊緒様は長きに渡って下地を作る事に力を注いでいらっしゃったのだ」

初見がどんなに好印象でも、人間でないというだけで人は妖を恐れ、排斥するだろう。だからこそ、霊緒は徐々にでも妖が人間と、妖である事を隠さずに暮らせる世界を作る為に――

その身を粉にするような尽力を富嶽は知っている。だからこそ、

「それを、」

「抑えなさい、富嶽」

怒気を孕む所か、殺気すら放つ富嶽を抑え、霊緒が前に出る。

「まるで、相手を殺してしまいそうな勢いでしたよ。我等が身内で殺し合いをして何になるというのです」

それに、と霊緒は付け加え、

「怒っているのは、貴方だけではないのですよ――」

霊緒の声に、聞く者を恐れさせる冷たさが加わった。

周囲に集う妖は、この二人に比べれば有象無象、烏合の集まりに等しい。そんな事実を改めて思い知らされるような、そんな声色だった。

「貴方はこれから根の国の神々を現世に起こし、社会を変える、と」

「そうです。人がこの世を支配してきたように、今度はまた、神話の再現をもって我々に社会を再び作り出すんです」

怖気すら誘う霊緒の前に尚、皇嵩は表情を変えずに答えた。

「神々の顕現には供え物――贄が必要とあります。それに、人を使う、と」

「御名東です。神様にはお供え物が必須です。人間は増え過ぎた。だからちょっとがかり供えられても大丈夫なのでは?」

「貴方達の境遇はわかります。ですが、やられたからやり返す、といった復讐は必ず自分達に帰って来る。その連鎖を断ち切らねば……」

「これは、正当な報復だ。人間はその咎を贖わなければならない」

平行線だ、と霊緒は思った。しかし、此処で説得出来ねば最悪の場合、この瘴気で被害が出る。今はまだこの一帯を覆う結界で人里まで瘴気が流れ出る事は無いが、もし本当に神々が顕現すれば被害所ではない。大災害のレベルとなる。此処で、何としても止めねばならない。

「皇嵩さん。これからそういった悲劇が起こらないよう、私は妖と人間が共生出来るように尽力を尽くしてきたつもりです。貴方が協力してくれれば、必ずいつの日か、妖と人は、」

「それでも!」

霊緒の言葉を遮るように、今まで黙って皇嵩の後ろに侍っていた妖の一人が叫んだ。

「それでも、死んだ仲間は帰って来ない。帰って来ないんですよ、霊緒さま……」

その言葉は、霊緒と富嶽はおろか、仲間の妖の心を震わせる。静かに水面に沁み込むように、その妖の言葉は波紋を広げ、その妖の言葉は響いた。

「霊緒様」

次いで、別の妖が口を開いた。

「何故、私の娘は死ななければならなかったのですか!?私たち母娘は、ただひっそりと活きて行ければ良かった!ただそれだけが望みだったというのに、妖であるというだけで滅ぼされなければならないというのなら……一体、私たちは何のために生を受けたのですか!?」

悲痛な吐露に、関を切ったように周りの妖が嘆きを、怒りを、痛みを訴え出した。

「人はもう、俺たちの存在すら信じちゃいねぇ。何事も無かったかのように日々を生きてる。だがよ、そしたら俺達ぁどうすりゃいいんだよ?俺達から夜を奪っときながら、人は感謝する所かその事すら知らねぇんだからよ」

「退魔師とその他の人間が違うという事は知っておる。霊緒さん、アンタのような良い人間も居れば、悪い人間も居るという事もの。じゃが、そんな悪い人間を一体、誰が裁ける?多くの人間はワシ達の事を知らん。知っておるのは退魔師ばかりじゃ。一体、ワシ達の怒りは誰にぶつければ良い?」

個々の主張は違えども、その根底にあるのは、悲劇だった。その闇は深く、即ち長き排斥の歴史。その歴史の重みを、いかにして霊緒の言葉が拭えようか。

「これでわかったでしょう、霊緒さん。人々は神を敬わなくなって久しく、この世の表で繁栄を極めた。そして、その裏に虐げられた我々の存在を知らずに。なれば、もう一度神の存在を知らしめ、畏れを抱かせる。もう止まらない、いや――止まれないのですよ。我等の怒りは、その怒りを知らぬ者にむ向けられている。その怒りを、思い出させなければならないのですから」

その怒りを、悲しみを、誰よりも知っているからこそ、と皇嵩は思う。だからこそ自分がやらねばならないと。故にこの決起を起こしたのだ。

霊緒は俯き、沈黙している。しかし、それは反論出来ぬ為ではなく、

「ええ。それは重々承知です。私も元は退魔の人間。そう言われれば私からは何も言えません。――ですが、」

面を上げた霊緒の表情は、決意を決めた者の顔だった。

「元は、貴方達が人を食らい、国に仇為した事から退魔師は始まったのです!良き人間が居れば悪しき人間も居る。それと同じくして貴方達のような虐げられる側の妖も居れば、人を喰らう悪しき妖も居ると知りなさい。貴方達の理屈はわかりました。だが、しかし!過去に起こった事は変えられぬのも理。傷付けられる痛みを知る者が、傷を与えるというのは、私は悲しい事だと私は思います。貴方達はそれで満足であるかもしれませんが、いずれまた、人の側から報復が返って来るでしょう。貴方達は、それで満足なのですか!?」

「我等に痛みを忘れろと言うのか!?」

「そうは言いません。ですが此処は耐えて頂きたい!人と妖が共存出来る社会が出来れば、いずれ人にその罪を、人が妖を排斥した事実を述べ、その罪を贖いましょう!!」

「言葉だけでは何とも言えよう!何所にその確証があるというのだ!?皇嵩の大将はすぐに実行したさ。我等を纏め上げ、決起し、根の国にいらっしゃる神様方を呼び出すため、黄泉路まで開いてみせた。あとは澱に沈む神様方が起きて下されば、我等の決起は成功する。見果てぬ理想と近き戦場なれば、我等は戦場で戦い、我等の理想を為す!!」

「血塗られた理想は理想とは言いません。それは勝者の理想であり、敗者にとっての理想ではありません!勝敗無く万人が望んだものこそが真の理想であるべきなのです!」

「なればこそ!高説垂れる前に力を見せて見ろ!我等のやり方が誤りであるなら、我等を止めてみせろ!貴様にその力があるのか、夏月霊緒ッ!!」

皇嵩の言葉を、周りの妖が代弁する。それはつまり、皆の心が一つであるという事だ。皇嵩はあれ以降言葉を発していない。それを霊緒は少し羨ましく思った。

理想を語るなら何かを為せ、と言う。ならば、思い知らせよう。こちらの覚悟と、力を。

霊緒は懐から煙管を取り出し、口に咥える。次いで袋から煙草を取り出し煙管に詰めだ。すると次の瞬間、煙管の先端から勢いよく猛火が吹き荒れた。

「致し方無し。なれば儂も本気でお前さん達の怒りに向き合おうぞ」

今まで丁寧な声色だった霊緒の口調が、深く響くような老婆のそれへと変わる。

――やはり自分にも退魔の血が流れているのだなと、霊緒は思う。結局は勝った方に従う、と相手は言っている。それの乗ってしまう自分も、結局は同じ穴の狢。

「富嶽!いかな理由とて殺めてはならん!!」

霊緒が高らかに声を発する。それに呼応して、富嶽が吠えた。

「はっ、承知!!」

今まで温厚な初老の女性の風体だった霊緒から、劫火のような気が溢れ出す。それは百幾の歳を重ね、老練された霊緒の力量を物語っていた。

「さて、なれば見せましょう、我が力を。そして、その謀反、止めてみせようぞ」

「童共が束になろうとて、我等に勝てると思うてか!?」

次いで、富嶽が猛る。身の丈七尺を超える体躯が、更に大きく見える。火山の如く溢れる気は重々しく、地を這う溶岩のようにその場を支配する。

煙管から猛火を燻らせる霊緒の、業火のような荒々しく周りを蹂躙する『気』。

巨躯を隆起させ聳える富嶽の、重々しくその場に君臨する山の如き『気』。

その二つの気に絶望的な差を見たのか、周囲を取り巻く妖達が後ずさる。が、しかし逃げるまではしなかった。そしかしたら、と妖達は思う。

その気を眼前にして一歩も引かない皇嵩とその側近。そして、これから現世に顕現するであろう神々に、可能性を見ているのだ。

「流石は退魔守護職。五行家の当主ですね。その『気』もそうですが、戦場に居る時が一番生き生きしていますよ」

煙管から噴き出す炎の光で湖畔は夕暮れのように明るく、周囲には火花が雪のように舞い、チリチリと飛び交っていた。

皇嵩の前へ、その身を守るように無言で側近の一人が身を出す。

「黄泉の国があるとされているのは出雲地方の筈じゃが、この場所で瘴気が噴き出ておるという事は、縮地法を使うて出雲と場を繋げたのかえ?」

「御名察です。さらに言えば、この場所も瘴気が噴き出る穴の一つに過ぎないという事です。さて、我らの相手をしながら黄泉路を探し、そして更に封印……と。やる事が多いですが全部こなせますか?」

挑発的な皇嵩の声を、霊緒は一蹴する。

「無論。出来るか出来ないかではなく、やらなければならん」

「御託はいいからかかって来い」

その二人の声を皮切りに、周囲の妖達が一斉に動いた。しかし、霊緒は動かず、その代わりに富嶽が身を出した。疾駆し接近する敵を前に、富嶽は何の構えも取らず、ただ霊緒の前に出ただけ。

雄叫びを上げつつ、先ず障害となる富嶽に狙いを定める妖達。地を蹴り、先峰の妖が鋭い抜き手を放つ。次いで、雪崩れるように他の妖達も己が武器を振り下ろす。しかし、有象無象の下級妖怪では、その鬼の相手をするには役不足だった。

富嶽を狙った爪牙はおろか刀までも、その悉くが富嶽の肌に傷一つ付ける事無く弾かれた。

「よもや、これで終わりではあるまいな?」

「ひッ……」

傷が付く所か、一歩も引かぬ富嶽が妖を睥睨する。妖は、竦んだように後ずさりするのみ。

「ふむ、ならばこちらから行くぞ」

開口一番、富嶽は拳を地に叩き付ける。いや、正確には地ではなく、その場を通る龍脈に。

龍脈とは、簡単に言えば大地に通る『気』の通り道である。富嶽は、そこに己が『霊気』を叩き込んだのだ。

そして次の瞬間、龍脈から噴火するように気と共に岩塊が炸裂した。

「どあああぁ――!?」

軒並み妖達が吹き飛び、霊緒達と皇嵩達を隔てるように、岩の壁がそそり立った。

「む、やはり死なん程度に手加減するとこんなものか」

富嶽が壁を作った真意を理解している霊緒は、富嶽に目配せをして今後の指針を告げる。

「黄泉路を探すのは骨が折れようよ。富嶽、お前は此処で足止めを。ワシは黄泉路を探す。少々荒っぽくなろうが、裏切り者には良い灸になろうよ。のぉ、霧埼の子倅?」

霊緒が視線を向けたのは、岩壁の向こう側に居る、皇嵩の側近の一人、影の薄そうな中年の男だった。

「お久しぶりですねェ、霊緒様」

慇懃無礼というよりは厭味がかったように聞こえる声で、男は霊緒へと声を投げかける。

「よもや、退魔守護職の宗家が、妖に肩入れしようとはのう」

「それは霊緒も同じ事でしょう?」

退魔守護職十二宗家、霧埼。偽装や隠蔽により、妖の存在や妖と退魔の一族との戦いの痕跡を隠す始末屋。その子倅の霧埼仁が、よりにもよって皇嵩の陣営に居るという事実に霊緒は眉を顰めた。

「何故妖の側に付いた?」

「一言で言えば、疲れたのですよ。妖との戦いにも、その後始末にも。我等の戦いは、決して人の世には出ない。その中で、最も日向に居るのが霧埼の一族なのですよ。居ない者として扱われるのは、もう御免です……と、最もらしい理由を付ければ満足ですか?」

人を食ったような仁の言葉にも、霊緒は悠々と思案する。

「これは困ったのう。霧埼の術で隠蔽されては容易には探せん。こうなれば、森ごと術を焼くか――」

「本当、人が変わったようですねェ。そして、その後始末をするのは、一体誰だと思っているのですかっ!?」

仁が怒声を上げると同時に、富嶽が両腕を広げ霊緒の前に立ちはだかる。遅れて鈍い音と共に、匕首が地面に落下した。富嶽が身を呈して防いだのだ。

声の響いたのは岩壁の向こうであったのにも関わらず、匕首が飛来したのは見当違いの方向だった。しかも、匕首が見えたのは、地面に落下した後だった。

「霧埼の偽装か――」

富嶽が唸る。風切り音で辛うじてわかったものの、霧埼の偽装術は相当なものだ。常に気を張っていなければ見落してしまう。

霧埼の声が響くが、しかし姿は見えぬまま。自身の優位を誇らしげに、今度こそその首を切り落とさんと嗤う。

「左様。見えざる殺意を貴女方はどう防ぎましょう?そして、私が妖共に陰形を施したとあれば、果たして貴女方に」

「あら?簡単に見破れるわよ?」

しかし、そんな霧埼の笑い声は、場違いな程涼やかな声に遮られた。そしてその声の主は、涼しげな声色と真逆の、逆巻く暴風と共に現れた。

「なっ――」

「いくら人の目を欺けても、風を欺く事は出来ないわよ」

彼女が引き起こすは暴風。彼女こそは出雲より吹き荒ぶ草薙ぐ風を背に受ける、鈴鹿山の鬼姫。その名を――

「来たか、鈴鹿御前」

側近に庇われた皇嵩は、その暴風を前にして微動だにしなかったが、その目には鈴鹿の登場に辟易する色が見受けられた。

鈴鹿御前と富嶽鬼。彼女達こそかつて、たった二人で日ノ本の国家転覆を謀り、乱を起こした名だたる鬼。

幼子であれど二人の名ぐらいは知っているであろう。その二人を従える者こそ、陸奥は妖遣いの退魔守護職五行家、夏月霊緒。この三人が雁首揃えた時点で、こちらの軍勢の士気はどれだけ下がるだろうか。

だが、その士気を維持し、鼓舞するのが自分の役割である、と皇嵩は解っていた。

こちらにも、退魔守護職の宗家という味方が居るという事を思い出させ、不殺を掲げる相手の甘さを逆手に取る。何より、こちらの最大のアドバンテージである、ただ時間を稼げば良いという利点を最大限に利用する。

「時が来たれば我等の勝利だ!神々が現界されるまで、ここで食い止めるぞ!」

そう、根の国の神々さえ現界すれは、いくら退魔守護職といえど、再度堕とす事は不可能。その上、霧埼に隠蔽された黄泉路を見つけ出すには、かなりの時間が必要になるだろう。

だからこそ、皇嵩達はここで粘らねばならないのだ。

「かかれっ!」

皇嵩の号令を皮切りに、再度妖達が行動に移る。こちらと違って、向こうは時間を稼げば勝ちだ。積極的に捜索の足止めに来る筈だ、と霊緒は考える。

故に、こちらのすべき事はただ一つ。

「富嶽、鈴鹿!任せましたよ!」

霊緒が叫ぶと同時、富嶽は霊緒を抱え、そのまま一気に放り投げた。

「なにぃ――っ!?」

霊緒は数百を超える妖達の包囲を突破し、そして黄泉路を探し森の中へと駆けて行った。

時間がかかるのなら、無理に相対せず、すぐに探しに行けば良い。一時的に黄泉路を封じるのであれば霊緒一人で十分事足りる。だからこそ、霊緒達は二手に分かれる事にしたのだ。

「誰か、霊緒を止めろォ!!」

包囲の中心――霊緒が去って行った逆の方へと雪崩れ込んでいた妖達は慌てて踏鞴を踏む。しかし、

「行かせると思うてか?」

立場が逆転した。時間を稼ぐのは富嶽達の方だ。霊緒が黄泉路を封じるまでの間、富嶽と鈴鹿はこの場から妖達を足止めする。

「チッーー」

皇嵩は舌打ちと共に、側近を従えて掻き消えた。おそらくは黄泉路を繋げたのと同列の縮地法を前もって仕掛けておいたのか。

即ちそれは、皇嵩達は自由にこの森の中を行き来できるという事だ。

しかし、富嶽と鈴鹿はそれを解っていてもこの場を動く事が出来ない。富嶽が皇嵩を追えば、この場に居る大軍を止める者が居なくなる。それは鈴鹿も同じだった。霧埼の陰形を見破れるのは彼女一人なのだからである。

故に、二人は今出来る事を実行する。

「怪我をしたくなくば退いていろっ!」

怒声を放つと同時、富嶽が動いた。それに続いて妖の軍勢もまた、二人へと向かい殺到する。各々の武器を、術を用いて富嶽へ飛びかかるも、赤い鬼は絶対的な存在となり立ち塞がる。

地を揺るがす踏み込みと共に放たれた富嶽の突きは、轟音と友に炸裂した。

軒並み吹き飛ぶ妖達の群れ。しかし、その後陣は怯む事無く飛びかかる。刃を通さずそのまま持ち主ごと吹き飛ばし、飛んで来る火炎弾を無視してその術者に向かって行き、足止め役の妖ごと叩き潰す。

一見すれば富嶽が圧倒的であっただろう。しかし、敵の目的はあくまでこちらの足止め。しかも主からは不殺を言い渡されている。こちらは向こうの思惑にまんまと乗せられた訳だ。

そうとわかっていても富嶽はこの場を動けない。傍らでは鈴鹿が霧埼に相対し、互いに牽制し合っている。

鈴鹿と相対する霧崎は互いに睨み合ったまま動かない。いや、霧崎の方は動けない。陰形術による偽装と隠蔽を得意とする霧崎は、元々戦闘向きの家系ではない。戦闘を行うにして陰系術によって影から討つのがメインとなる。

自尊心からこの場に姿を現した時点で、霧崎は致命的なミスを犯していたのだ。

だが、この場において霧崎の陰形を見破れるのが鈴鹿だけとあれば話は別である。実質、霧崎一人で鈴鹿を抑えられるならば安いものである。鈴鹿も下手に動こうとなればすぐさま霧崎は陰形術を使うだろう。

陰形術はその名の通り、己の姿を見えなくするだけではない。気配や術者から外界へ発せられる音すら減衰させる。それを鈴鹿は風を放ち、風の遮られる場所に霧崎が要ると当たりを付けているに過ぎない。陰形を使われ移動されれば、また補足するのに時間がかかる。

だが、霧崎にもこの場の仲間全員に術を掛けるまでの余裕は無く、動こうにも鈴鹿と睨み合っている状況なのでそれも難しい。こうして二人は膠着状態となっていた。

これが通常の戦場だったならどれほど楽であったか。富嶽も鈴鹿も、手加減しながらの足止めには限界がある。ふと気を抜けば殺めてしまいそうだった。

理想を違えた有象無象を黙らせる手っ取り早い方法は主から禁じられ、殺さぬように一体一体手加減を加えて昏倒させている状態だ。全てを片付け霊緒の元へ馳せ参じるのにはまだまだ時間がかかるであろう。

その事に歯痒さを感じつつも、富嶽は主の命を忠実に守り、一人の死者も出さずに妖怪共を無力化して行く。

事態が動くとすれば、霊緒が黄泉路を見つけるか、皇嵩が黄泉路を開く時であろう。

だが、もしくは――

―灰色の妖靄―

未だ霧の覚め止まぬ森の中を玉部は走っていた。深い霧の中で尚、自分が何所へ向かっているか解っているかのように確かな足取りだった。

既に呉葉の事は意識の外にあり、念頭には己が主と―自分が世話する―主の孫の事しか頭に無かった。だからこそ、その違和感に気付くのが遅くなってしまった。

例えば、湖畔で莫大な気が溢れた事。

例えば、屋敷の方角の妖気が凍り付いた事。

例えば、龍脈を通じて空間が歪んだ事。

例えば、霧が重苦しくなっていく事。

「――!?」

ガクリ、と玉部の体勢が崩れた。足は縺れた訳でもなければ、疲労が蓄積している訳でもない。何か、肩からかけて重いものが伸しかかって来たような……

瞬間、ハッと玉部が飛び退く。同時、寸瞬まで玉部の居た場所に灰色の霧が集い、地面が深く陥没した。

「敵ですか!?」

視線を巡らせるも、こうも霧が深くては敵の姿など見える筈が無い。玉部は急いで木の葉を取り出した。それを宙に放り術を唱えると、旋風を巻き起こして霧を散らした。

が、灰色の霧だけは重々しくクレーターの中で不動。

「この霧は……」

玉部が呟いたと同時、地の底から這い出るような怨嗟の声が聞こえて来る。

「玉部ええぇェェ――――!!」

その声の主は灰色の靄を纏って、木々はおろか地面すら砕きながら向かって来る。

「あらあら、お早いお目覚めですねー、呉葉様」

「舐めおって、小娘がッ!!お前はここで殺してくれる!惑わすしか能の無い狸の分際でよくも!」

怒り心頭といった様子の呉葉は、超重圧の粒子で形成される靄を玉部へと流す。空気よりも重い筈のソレは、粉塵の様に舞い上がり、玉部の頭上を覆い尽くす。

「これは……!?」

その靄に薄ら寒いものを感じたのか、いつもの笑みを消した玉部は全身のバネを利用して横に回避した。

タイミングはギリギリだった。尾っぽの先端を掠った靄は、周囲の木々を難なく薙ぎ倒しながら地面に大きなクレーターを作り出す。

一体あの粒子一つにどれだけの重さがあるというのか。掠った尾っぽに激痛が走る。玉部が目を向けると、尾っぽの先端は皮膚がずるりと剥け、茶色の毛並みの中に桃と朱が垣間見えていた。

「痛ぅ……本気、のようでございますね」

「理念や悲願など最早どうでもいい。今はお前だけが憎いッ!!」

再び呉葉が灰色の靄を精製し、撒く。今度は先ほどよりも範囲を広く。

「くぅ……」

玉部は全身の力を振り絞り、大きく跳躍した。だが、未だ範囲外に出るに至っていない。

「かけまくもかしこき いざなぎのおおかみ――」

祝詞を唱えながら玉部は、竹箒の先端で地面を掃う仕草をする。祝詞の意は穢を祓う。転じて、外法を無力化する祝詞である。

「――はらえたまい きよめたまへともうすことを きこしめせとかしこみかしこみももうす」

祝詞を唱え終えた玉部だが、その顔が驚愕に歪む。地面の陣の方が砕け、靄は振り落ちる事を止めない。

「……無駄だ」

「祓え詞の祝詞が!?」

茫然とする余裕も無く身を投げ出す。矢のように一直線に範囲外向けて地を蹴る。が、

「ぐっ、あああぁぁぁ――」

べきり、という水気を含んだ鈍い音が響いた。

玉部は絶叫を上げようとし、しかしそれは喉元が引き攣って叶わなかった。靄を振り払おうとしても足に力は入らず、纏わりつく靄の自重で這う事も出来ない。

「ひっ……ぐっ――」

「……ウクク。化かすしか能の無い狸が、仮にも鬼の私に力で敵う訳があるまい」

竹箒を握りしめ苦痛をかみ殺す玉部を、呉葉は愉悦混じりに見下した。

「あまり、私を舐めない方が……宜しいかと……」

「……口は減らないようだな。だが、もう死ね」

無慈悲に呉葉は言い放ち、生成される靄は次々と玉部の上に降り積もって行く。

灰色の靄は遂に玉部を覆い尽くし、その姿が見えなくなった。

「……お前を殺したら、次はあの小僧だ。死なないのが売りらしいが、この超重圧の霧の中で果たして生きていられようか。……そして次は霊緒か。例え退魔の火術であろうとも、この靄なれば――」

「坊ちゃまを、どうすると?」

不意に、靄の中から玉部の声が響いた。

「ば、馬鹿な!?」

呉葉は驚愕した。呉葉自身、超重圧の靄には絶大な信頼があったし、姉からも認められた技なのだ。この靄からは今まで誰一人として抜け出した事は無かったし、これからもそうだと思っていた。

だが、次の瞬間、靄の塊が霧散した。

「坊ちゃまをどうなさると言った!?」

普段は閉ざされている玉部の両眼が、開いていた。柔和な笑みも、朗らかな雰囲気すらも、全てが消え去り、そこにあるのは抜き身の刃のような剣呑なものに変わっていた。

普段の玉部を知っている者が今の彼女を見れば、玉部本人とは気付かなかっただろう。滲み出す妖気は薄ら寒く、三白眼から放たれる鋭利な視線が呉葉を射抜いていた。

「……お前、化かしていたのか。小僧も、霊緒も、皆を」

震える声で呟くものの、玉部は無言で下げていた右手をゆっくりと持ち上げた。

そこに握られていたのは、一振りの日本刀。反対側の手には一節短くなった竹箒が。

――仕込み刀。

こちらの靄を散らしたとなれば、竹箒の中に仕込んであった日本刀には何かある。そう踏んだ呉葉は不用意に動かない。靄が散ったとあれば術を切る類のものか。ならば呉葉が相手するには分が悪すぎる。

冷静に退くか攻めるか思考を巡らせる。と言ってもそれは刹那にも満たない逡巡。

が、

「遅い」

玉部が動くには、充分過ぎる隙だった。

呉葉に斬られたという実感は無かった。ただ、目の前の玉部の右手がブレた。そんな認識しか無かった筈なのに、

「…………なっ」

半身が、消失していた。残骸すらもなく、さらさらと砂の城が崩壊して行くような感覚のみが残っていた。

「何だ……これは…………」

何時だって他人を思いやるような眼差しの玉部が、今は冷めるような目線で呉葉を見つめていた。

「退け、外道。命までは取らん。だが、今度坊ちゃまに手を出そうなどと口に出してみろ。その時は魂そのものから消し飛ばしてくれる」

そのまま玉部は踵を返すと、呉葉には目もくれずに歩き去って行った。

「玉部ええェェェ――――!!」

半身を消し飛ばされながらも、呉葉は怯む事無く靄を玉部に放った。今までとは比べ物にならない程の密度と重量。

だが、

――玉部が消えた。

そう思った瞬間、呉葉が驚愕する暇も無く、背後から銀色の孤が呉葉の両腕を切り落として行った。続いて呉葉の喉から刃が生え、今度こそ呉葉の意識は刈り取られた。

玉部は何の感慨も抱かずに、刃を鞘に納めると意識の無い呉葉に語りかける。

「祓っただけだ。じきに元通りになる。それまでせいぜい寝ていろ」

冷酷な声色で吐き捨てると、今度こそ玉部は森の中を走りだした。

―葬妖の炎―

霧の深い森の中で炎が上がる。

炎は黒く湧き出る瘴気を焼き尽くして尚その場に留まり空間を焼き焦がす。その炎は物理的な事象の他に、術を焼き払うという効果がある。

夏月の破魔の炎だ。

破魔の炎は瘴気の噴き出る孔を焼き尽くし、後に残るのは焼け焦げた地面のみ。

「さて、これで五つ。よくもまぁ繋げたもんじゃのう」

いかな縮地法とて万能ではない。あくまで地脈上の一地点同士を繋げるだけのもので自由自在に空間を繋げるのもではない。

それを攪乱にためとはいえダミーをこれ程まで用意するとは、

「中々どうして、敵に回したのが惜しいのぅ……」

自分の中に流れる血が騒ぐのが解る。体の中で溢れんばかりに気はうねり、許容量を超えた気は体外へと溢れだしていた。

霊緒が燃やした孔は五つ。そのいずれも瘴気が噴き出るだけの小さなものであったが、それも全くの無駄足であった訳ではない。森に充満する瘴気の濃度は徐々に薄くなっているし、一つ一つ確実に潰して行けば最後には本命に辿り着ける。

問題は、タイムリミットだった。

皇嵩が消えたという事は、即ち直々に手を下さねばならない作業が残っているという事だろう。

黄泉路に空間を繋げて一手。そこから祝詞を唱え、根の国におわす神を呼び出し二手。そして、贄を以て現世に神を完全に顕現させ三手。神を呼び出すにはこれ程までの手間がかかるのだ。

皇嵩は神を呼び起こし、高次元の存在を以て人間を制圧し、武力で人間の上に立つ。報復だの何だの高説を垂れてはいるが、とどのつまりそう言う事だ。

「そんな事、許せる筈がなかろうに――」

咥えた煙管から、更に激しく火炎が燃え盛る。いっそこの山ごと燃やし尽くしてしまえば話は早いが、それでは元も子も無い話だ。

霊緒はこれまでと同じように、瘴気のより濃い方角へと振り返る。気によって強化され、鋭敏化された感覚を駆使して方角を特定し、そちらへ向かう。

これまで敵の襲撃が散発的だったのは富嶽と鈴鹿が役目を果たしているからだろう。ならばこちらも、こちらの役目を果たさなければなるまい。

黄泉路の穴を燃やし尽した霊緒は思考に浸る。流石に黄泉路がそのまま繋げてあるとは思っていない。

神を降ろす儀式が完成するまでこちらに邪魔はされたくはないだろう。ならばギリギリまで隠蔽する為に、要石か何かで地脈ごと黄泉路の入口を封じている筈だ。

おそらく、隠蔽には霧埼が関わっている。黄泉路自体、探すのは不可能ではない。縮地法を使用しているのならば起点は必ず地脈上――黄泉路程の地となれば、より高度な霊地である霊脈上――に存在する筈。

地脈とは、簡単に言えば地面の下を流れる大きな気の通り道だ。定義上では地脈より高位なものを霊脈、最高位の地脈を龍脈とされる。

そして、その地脈が交わる場所は霊地と呼ばれる。

黄泉路程の場所を繋げるとなると、霊地クラスの場所が必要になるだろう。そして、だが、ここで問題なのは、

「広いのぅ……」

霊緒は森一帯を見渡し、ぽつりと零す。

この近辺に霊地は3ヶ所存在する。1つは夏月の屋敷の直下。1つは北東に存在する盆地周辺。

そして、この山一帯。

だからこそ、皇嵩は各所にダミーを設置出来たのであろう。

霊緒は霊脈が直に交わる場所を探しあてつつ、そして手あたり次第に潰している。瘴気はだいぶ薄れてきつつあるも、未だに濃密な妖気を孕んだ霧が辺りを漂っている。

これでは探査も容易ではない。気配を探ろうにも妖霧が邪魔になり、術を用いて探そうにも瘴気が干渉して緻密な術は構築出来ない。

「はて、どうしたものか――」

――やはり一面焼き尽くすのが早い。

「よし決めた。儂、やるぞえ」

何も森そのものを焼き払うという訳ではない。夏月の葬炎で霊的なものだけを焼き払うのだ。この地は数年、霊地として機能しなくなるが、背に腹は代えられない。

「かけまくもかしこき いなりのおおがみに――」

通常、火術を使用する際に祝詞は必要無い。術を形づける為に名を与える事はあれど、基本的には体内で練った気を用いて術を行使する。

しかし、今回のような大規模な術式を使用する際には、その前に祝詞を唱える。

稲荷様から授けられた火術を使用する際には、願掛けを兼ねたものとして稲荷様に祝詞を唱える。元より、稲荷の祝詞とは生業成就を祈願する祝詞であるので、どちらかと言えば自己暗示の意味合いが強い。

まぁ、この術でその稲荷様が祀られている祠も巻き込むことになるが、あの稲荷様の事だ。問題は無いだろう。自分が授けた火術すら防げないようならば別だが。

「――よのまもりひのまもりにまもり さきはへたまへとかしこみかしこみももおす」

そして、祝詞も終盤となりいよいよ術式の構成も佳境に入ろうとしたその時、

「何をしているんですか、このお馬鹿――――っ!!」

不意を撃った横からの衝撃に、霊緒は盛大に吹き飛ばされた。

衝撃は霊緒の全身を打つようなものだった。それは即ち、霊緒の全身を覆うような威力と範囲があるという事だ。

霊緒は衝撃をものともせずに、宙でくるりと身を回すと、軽い足取りで着地した。

「老体を吹き飛ばすとはなんと冷酷非道な……!」

「どの口がほざきやがりますかっ!?」

霊緒がよよよ、と泣き崩れる演技をすると、さらに追撃が飛んで来た。それを軽く跳躍して躱すと、霊緒は相手に向き直る。

「何ぞ、式部か。足止めに来たのかえ?」

そこに居たのは、巨大な狐の尻尾を持つ皇嵩の側近、葛葉式部だった。

「ええ。稲荷の祝詞が聞こえて来ると思えば、貴方は一体何をしようとしてたんですか!?」

「無論、貴女達の企みを阻止すべく――」

「真面目な振りをしても騙されませんよ!?」

「何じゃ、ケチ」

詰まらなそうに唇を尖らせ、半目で霊緒が煙管を噴かした。

「誰がケチですか誰がっ!?」

額に青筋を浮かべた式部は、唐傘を持つてを震えさせる。

「……じゃが、若いの」

「ええい、狸め。日頃は猫を被っていたのか!?」

「たまはここに居ないぞえ?」

「貴女の事です貴女のっ!!」

「呵々!面白いのぅ式部は」

「ああ、もう――!!」

のらりくらりと茶化す霊緒に、式部は歯ぎしりするしか無い。

式部は頭をガリガリ掻き毟り、

「――枯草」

前動作無しで、唐傘を跳ね上げた。

「…………!?」

霊緒の不意を打つ形で、その先端が火を噴く。

しかし、放たれた弾は霊緒に届く前に燃焼し、燃え尽きた。

「チ――」

「中々筋は良い」

「……そういうのは、少しでも焦ってから言って下さい」

先刻と打って変わって、霊緒の表情は引き締まっていた。

「嗚呼。だが、若い、だから相手の言動で簡単に激昂しおる。仮にも側近であれば、いかなる時も冷静でなくてはならん」

「先程の巫山戯た言動は、私を怒らせるための演技ですか……」

「さて、のう。先刻のが本性かもしれんぞ?」

真意を悟らせぬ霊緒の言動に、式部は冷静になり始める。

「幻術に掛からぬよう、相手の精神を惑わすつもりですか」

「笑止。小娘の幻術など届く前に焼き尽くされるわ」

斜には構えているものの、それでも霊緒の視線は鋭いものだった。

「狐は影から化かすのが王道。それを、怒りに任せて飛びだした時点で既に幻術師としては失格よ」

煙を吐き出し、霊緒が一喝した。

「……狐が総じて幻術しか能が無いと思わない方が宜しいかと」

またもや式部は額に青筋を浮かべる。が、怒声を飛ばす訳でもなく、静かに唐傘を腰溜めに構える。

しかし、その様子を霊緒は意に介さず、煙管を咥えたまま、

「よもや、小娘風情がこの儂に挑もうと?」

横目で式部を流し見ると、興味を失った様に紫煙の行き先を眺める。

「甘く見ないで頂きたい」

言うや否や、式部が消えた。

「――木枯」

一瞬。式部は音も無く、そして瞬時に霊緒の背後に現れる。唐傘から引き抜かれた柄の先、仕込み刃が霊緒の首を刈らんとするが、それは煙管の柄で弾かれるという刹那の攻防が交わされる。

「フッ――甘いの」

その意趣返しか、老婆の外見とはかけ離れた身のこなしで、今度は霊緒が消えた。式部の背後に現れると、煙管の先から劫火が吹き荒れた。

術師の役割が後方支援という考えとは逸している程、鋭敏な動きでステップを踏む霊緒に、式部は驚愕を隠し切れなかった。

焦りつつも、迫り来る劫火を唐傘の傘で防ぐと、巨大な尻尾を振り払って霊緒を牽制しつつ距離を取る。

が、霊緒が身軽に跳躍し、逆に尻尾を掴んで式部に接近を試みた。

「ええい――」

式部は大きく尻尾を旋回させて霊緒を振り払うが、霊緒は宙でくるりと身を回し、軽い足取りで着地し、

「ナウマクサマンダ――」

「なっ…………!?」

次の瞬間、式部の尻尾が爆発した。

尻尾は跡形も無く爆散し、式部の体が焔に包まれる。悲鳴を上げてのたうち回る式部は、その場に崩れ落ちた。

霊緒が唱えたのは、不動明王の真言。先ほど尻尾に取り付いた時、式部に気取られぬように符を張り付けておいたのだ。

「ば、馬鹿なっ……か、火術使いが、火術を使わずに、符を使う、なんて」

「火術使いが、火術しか使わぬと誰が決めた」

途切れ途切れの式部の声に対して、霊緒の声は何の熱も持っていなかった。

酸素を奪われ満足に声を発せない式部を無表情に見下ろすと、 ――ぐしゃり

その足で、式部の頭部を踏み潰した。

不殺を唱えている霊緒にあるまじき行動。しかし、何の感慨も沸かないとでもいうように、霊緒は口から紫煙と共に声を吐いた。

「……さっさと出てこないのであれば、こちらから行くぞ」

「一本ではろくに時間も稼げませんね」

刹那、何処からともなく声が響くと、霊緒の足元から黒いものが這い出る。それは、尻尾の形をした黒い影。

影は地を這いながらするすると動いて行き、最終的には、

「私の尻尾に火を点けた上に、踏み潰すなんて……結構痛いんですよ!?」

木の影に隠れていた式部にくっ付いた。今、式部の背後には四本の尻尾と、一本の尻尾の影が揺らいでいた。

しかし、霊緒はその姿を見ても驚く様子は無く、むしろ厄介事が増えたかのように奥歯を噛んだ。

「もう猶予が無いでな、初撃から飛ばして行くぞえ」

言うや否や、再び霊緒が疾った。今回は距離が開いている為に消えた様には見えないものの、それでも尋常ならざる速度で式部に肉薄する。

速度を落とす事無く、顔が触れ合わんばかりの距離まで接近し、炎を纏った煙管を叩き付ける。式部は顔をのけ反らせ、影の尻尾を間に滑り込ませるようにして煙管を弾いた。

しかし、その手に持つ仕込み刀を振り上げる暇も無く、霊緒から吐息と共に火炎が吹き荒れた。

「ぐっ――」

「ふはは、良くもまぁ避ける避ける」

木の葉を撒き散らし猛火を遮る式部に対し、霊緒は余裕綽々と嗤う。

しかし、それでも攻める事は止めず、生成された炎剣が易々と木の葉の障壁を貫く。

「ええい、鬱陶しい!!」

炎剣でその身を焦がしつつも、実体を持った尻尾で打ち払い、その尻尾のうちの一本が分化した。

現れたのは尻尾を一本しか持たない式部であった。それも、本体と寸分と違わぬ姿形、そして妖気を纏っていた。

それはつまり、最大で四人の式部を同時に相手しなければならないという事だ。

だが、

「余裕なのは結構。だが時間が惜しいのでな、さっさと全員纏めて掛かって来るがいい。さもなくば――」

霊緒は一拍置き、

「一匹を除いて残りを潰すぞ」

煙管を咥えた霊緒の口元が歪む。それは、戦の中に身を置いた者特有の笑み。相手を圧倒的なまでの力で叩き潰せるものが浮かべる、狂ったような優位者の笑み。

「日和見を気取っていても鬼斬りは鬼斬り……結局は武力で制圧という訳ですか」

「貴様達の言えた口ではあるまい。それに、勘違いするでないぞ。儂は貴様達のように大義名分を騙って己の行動を正当化する者が一番好まん。何故一歩身を引いて物事を考えられん?何故同じ傷をあたえようとする?こちらが歩み寄らずして、何故理解を得ようとする!?」

「貴女が言えた口ですか!?真っ先に擁護すべき貴女が守らずして、一体誰が妖を守るというのです!?同胞を殺める為に操られる道具でしか無い私達を、あのお方は世に解放して下さると仰った!!もう、隠れ住まずとも良いと仰った!!貴女が語った理想とは違う。あのお方は、我等に希望でしか無い可能性ではなく、実現可能な方法を与えて下さったのだッ!!」

その、式部の叫びを、霊緒は聞いた。だが、聞くだけだ。霊緒はそれを良策とは思わない。それどころか、

「――嗚呼、下らん。実に下らん。結局は目先の利益に飛び付いただけではないか。それが一番手っ取り早く、そして皆の気が治まるだけの、今の貴様達の忌み嫌う人間と全く同じではないか。儂は、それが一番気に食わん」

笑みが、消えた。戦闘狂特有の笑みはその名残すら残らず霧散し、霊緒の貌には何も残らない。ただ、氷のような能面があるだけだ。

霊緒は、煙管を仕舞い込んで両手を広げる。

「安心しろ。人間と同じ考え方が出来ると言う事は、いつか分かり合えるという事でもある」

「ほざけッ!!」

式部が吠えた。その身を分けつつ走る。合計で四体に増えた式部はそれぞれ霊緒へと刃を振り下ろし、その引き金を引こうとする。

しかし、式部の動きが止まった。否、止められた。飛びかかっていた者は宙に縫い付けられたかのように。地を奔っていた者は身を低くして地を蹴る姿勢のまま。刃は霊緒に遠く届かず、引き金を引くための、指一本すら動かせず、その全てが静止していた。

「嗚呼、心配するな。殺しまでせん」

パチリ、と霊緒が指を鳴らし、三体の式部が燃え上がった。いや、それは既に焼却だった。火葬場級の火力を有する炎が式部の全身を舐める。声すら上げられず、式部であった物は、その悉くが灰燼に帰した。

残ったのは霊緒と、影の四本の尻尾と実体の尻尾を一本持った、おそらくは本体だと思われる式部。

「時間が無いという割には、結構遊んでいるじゃない」

開き直りか、式部は挑発的な口調で霊緒に語りかける。

霊緒の五指から、糸が伸びていた。糸と言っても普通のそれではなく、見えざる霊力の糸が、絡め捕るように式部の体を拘束している。

「いや、なに。殺めずに制圧する事がこれ程難しいとは思わんでな。ふとした拍子に殺めてしまいそうでの」

霊緒は再び唇の端を吊り上げる。先ほどからテンションの高低差が激しいのは、火術師特有の特徴だった。日ごろ穏やかな物腰であったも、いざ戦闘となれば炎が燃え上がるように好戦的になって行く。それは術者が扱う術が強ければ強い程高低差に比例するという。

霊緒は模範的なまでに、典型的な火術師であった。

霊緒が指を鳴らし、指先に火を灯す。

「寝ておれ」

その火を左手から伸びる糸に引火させる。じわりじわりと霊糸は燃え、徐々に式部へと近づいて行く。

「おやすみなさい、イカれた戦闘狂」

「ああ、小娘」

そして、その炎が式部を包もうとした刹那、唐突に火が消えた。

「え……?」

「む……?」

式部は火が消えた事よりも、霊緒は火が掻き消された事よりも、

何より、裏鬼門の方角より流れ出る禍々しい妖気に茫然とし、

そして、森が死んだ。

霊糸すら千切れ消え、影の尻尾もろとも式部は消滅し、大地も木々も、空気すら死んで行くような怖気を霊緒は感じた。

「…………いかん」

我を忘れたかのように呟いた霊緒はその一瞬で正気を取り戻し、一心不乱に悪寒の襲って来る方角へと駆け出した。

戦場では命取りになりかねないと知りつつも、富嶽は振りかえらずにはいられなかった。それは、鈴鹿同然であったが、今この瞬間は、その場に居た全員が動きを止め、同じ方角を凝視していた。

「富嶽!!私は先に参りますッ!!」

鈴鹿は霧埼の抑制という任すらかなぐり捨て、疾風と共に消えた。だが、それだけだ。誰も動かない。いや、動けない。

その場に居る皆が神代の存在に畏怖を持ち、硬直していた。

呼吸すらままならないような威圧感の中、富嶽はやっと正気に返り、鈴鹿の去った方角へ駆け出した。

―澱の神、檻の守―

「ちょっと、屋敷に戻って来ちゃいましたよ!?だから向こうだって言ったじゃないですかっ!!」

「来てしまったものは仕方がないのだからごちゃごちゃ言うなッ!!」

自信満々に突き進んだと思えばこれだよ。何を根拠にしてあんな自信があったのだろうか。紅葉さんも先導に付いて来てみれば、いつしか屋敷まで戻って来てしまっていた。

ともかく、

「もう時間が無いんですよ!?早く霊緒さんと合流するなり黄泉路を見つけるなりしないと」

「んな事はわかってる!!お前少しは黙ってろっ!!」

ガリガリと頭を掻き毟る紅葉さんだが、焦ってるのはこっちも同じって事をわかって欲しい。

森を突っ切って来たら目の前が屋敷の裏門だなんて洒落になってない。予定通りならば鈴鹿さんが屋敷内の叛乱を制圧し終わっている筈だが、何かおかしい。

「師匠……」

「なんだ馬鹿弟子」

紅葉さんに呼びかける。一応返答は帰って来たが、その口ぶりからすると紅葉さんも気づいているらしい。

屋敷が、異様に静かなのだ。制圧が終わっているにしても、妖の気配ぐらいするだろう。それに、内乱が起きているのだからもう少しざわついていても不思議ではない。

だが、屋敷は異様に静まり返り、中から生き物の気配が感じられないのだ。

「中、見て来ます。なーんか嫌な感じがするんですよ」

「待て、私も行く」

屋敷に一歩近づく度、形容し難い寒気が背筋を走る。何と言うか、地下への階段を一歩一歩降りて行くような類の。

屋敷の閂に手を掛けた瞬間、鋭い痛みが走った。

「痛っ――」

見ると、閂には霜が降っていた。そこに直に触れたせいで低温火傷になったのか。

「これは――」

「雪華の仕業にしか思えんが、さっきまで溶けていた奴にここまで出来るとは思えんな……」

屋敷の中で氷を操るのは雪華さんしか居ないが、真夏に活動出来るような人では無い。他にも似たような力を持つ人も居るが、一体どうして――

「ともかく、中に入るぞ。退いていろ」

言うや否や、俺が退くのも確認せずに閂を爆破しやがった。

「う熱っちゃ!?何するんですかっ!?」

「退けと言っていただろうが。お前がトロいのが悪い」

「言うのと同時にやられたら退く暇なんてある訳無いでしょうがッ!!」

これだからこの人と一緒はヤなんだよ……

ともかく、早速屋敷の中を確認しなければ。そう思い取っ手に手をかけるも、裏口の扉はビクともしない。閂は吹き飛ばされているので鍵は掛かっていない筈だし。押し戸だがら考えられる事と言えば、向こう側に何か置いてあるのか……?

と、こちらが扉の前で右往左往していると、

「ええい、さっさと開けんか!!」

突如、後ろから怒号と共に爆風が俺の脇を通り抜け、目の前で扉を木っ端微塵に吹き飛ばした。無論、俺もろとも。

「どわっ!?だからあれほど巻き込まないで下さいって、」

容赦の無い紅葉さんの行いに非難の声を上げるも、紅葉さんはこちらの方を見てはいなかった。その視線は一点―壊された扉の先―を凝視したまま、微動だにしていなかった。

硬直、あるいは驚愕。俺は、固まった視線につられて扉の向こうを覗き、そして同じく硬直した。

「何だ、これ…………」

扉が開かないのも道理だ。だって、これでは扉を動かしようが無い。半ば予想はしていたが、まさかこんな惨状にまでなっているなんて思ってもみなかった。

屋敷の敷地内が、全て凍っていた。いや、凍るなんてレベルじゃない。最早、これは凍結だ。建物も庭園も全てが、氷で覆われていた。

「これを……雪華が…………?」

紅葉さんが呟く。確かに、さっきまで融けかかっていた雪女が氷で屋敷全土を覆い尽くせる訳が無い。

「とりあえず中を見て回るぞ。最悪、死人が出る」

「は、はいっ」

裏門を潜り、敷地の中に入った瞬間、えもいわれぬ寒気が襲ってきた。妖気を遮断する屋敷の結界が妖気を纏った冷気を外部へ逃さぬよう中へ閉じ込めているのか。

いや、それだけじゃあない。

「何だ、これ…………」

屋敷が、妖気で満ちている。禍々しいまでに漂う妖気は破壊された裏門から溢れ出て、周囲を漂う瘴気と交わって毒々しいものとなる。

一歩踏み出す。と、足を進める度に濃密な妖気が全身に絡み付いてくる。まるで、泥の沼に足を取られたかのような重みと、むせかえるような濃さ。明らかに異常だ。

ともかく、雪華さんを探して事情を聞かないと……

紅葉さんに並走して屋敷の中を突っ切る。しかし、その途中途中で氷漬けの妖を目にするが、今の俺たちではどうする事も出来ない。

紅葉さんでは火力が有り過ぎて氷ごと中の妖を砕いてしまいかねないし、俺では時間がかかり過ぎて全員を助けるのは不可能だ。それこそ術者本人に解除させるか、霊緒さんに任せるしかない。

俺たちに出来ることは、一刻も早く雪華さんを探し出す事だ。

「紅葉さん!なんか探索の術式とか無いんですか!?」

「もうやっているッ!!」

見れば、紅葉さんの両腕から先が霞となって消え失せていた。多分、自分の感覚範囲を広げているだとかそこら辺だろう。

だが一応、大体は予想が付く。多分、凍結の中心地は黒巣邸近くの所だろう。見れば黒巣邸近隣が目に見えて凍結の侵食が酷いのが解る。ここからでも屋敷を覆う氷山が見える程だ。

「わかったぞ。座敷牢のある蔵の前だ」

「その霞でわかるもんなんですか?」

「ああ。あそこら辺が一番冷たかったからな」

……期待した俺が馬鹿だった。

「何をぼさっとしている。さっさと行くぞ!!」

「呆れてるんですよっ!!」

黒巣邸に向けて走り出した紅葉さんに遅れて、俺も後に続いて走り出す。何と言うか、雪華さんが居れば儲けもんと考えとけばいいか。一応俺も術を飛ばして、

「お、居たぞ!!」

「嘘ぉ!?」

探索系の術をわざわざ一から組み立てている最中に聞こえた紅葉さんの声は、全くもって冗談に聞こえた。

前方を確認すると確かに、蔵の近くに雪華さんらしき影が見える。

あんなんで解んのかよっ!?まぁ、結果オーライか……

「雪華!」

「雪華さんっ!!」

居たには居た。だが、様子がおかしい。

雪華さんは、融けたままだった。苦しげに呼吸する姿は、こんな大規模な広域凍結を行えるようには見えない。

「おい、しっかりしろ!何があった!?」

紅葉さんが雪華さんを助け起こすも、ぐったりとした雪華さんは息も絶え絶えに呟く。

「何かね、暴れ出した人達を……御前が黙らせたのまではよかったの。でも、なんか……さっきから気分が悪いの。急に皆が暴れ出して、敵味方関係無くなって……っ、駄目なの…………体は溶けたままなのにっ、妖気だけが溢れ出てきて制御出来ないの…………」

……一体何が起こっている?妖気が溢れているのに、生命力が減衰する?

それじゃあ、まるで――

「まさか……、紅葉さん!!」

頭の中に漠然と浮かび上がる現状と、その結果引き起こる事象。その因子が全て結びついた瞬間、反射的に紅葉さんに向かって叫んでいた。

「五月蝿い。今は雪華を、」

「聞いて下さい!!皇嵩は、この場を儀式場にするつもりですッ!!」

俺の予想が正しければ、多分――黒巣は此処を霊地に仕立て上げるつもりだ。夏月家を覆う結界が仇となったのだ。妖気が外部へ流出しない事を利用して、霊地を満たす為に妖気を蔓延させ、急造の儀式場を作りあげる。

変わりに生命力が減衰しているのは贄の代わりか。神様を呼び出す為の供物として生命力を奪いっている。

加えて、周囲に蔓延る瘴気は黄泉路から直接神様を呼び出すには持って来いの触媒だ。

結界によって閉ざされた空間に生命力と妖気、そして瘴気が逃げ場も無く満ち溢れている。奇しくもこの妖遣いの里自体、神様を呼び出すには都合の良すぎる立地なのだ。

あとは黄泉路を完全に広げて安定させれば、現世と幽世が物理的に繋がってしまう。

急ぎ足でその全てを紅葉さんに説明する。説明が進むにつれ、いつも強気な紅葉さんの表情に焦りの色が浮かぶ。

「なっ……さっさと黒巣を探すぞ!!お前の考えが当たっていれば術者の黒巣もこの近くに居る筈だ!!」

だが、屋敷の内部は濃密な妖気で満たされている。加えて、暴走した雪華さんが行った凍結。この中で儀式場を探すとなると骨が折れる。

先程、何故紅葉さんが触覚で雪華さんを捜索したか合点がいった。探索系の術式では濃密な妖気に阻害されて使い物にならない。だから紅葉さんは確実性には欠ける触覚で探索したのか。

なんとか生命力の流れを見る事が出来れば……

こんな場所に長時間居ればこちらも危ない。今はまだ平気だが、いつこちらに影響が出るかもわからない。もし紅葉さんが暴走でもすれば洒落になわない事態に陥る。何としても儀式場を探さないと……

「坊、紅葉!!何が起こったのです!?」

「御前!!厄介な事になったぞ」

風が吹き荒れたと思った瞬間、いつの間にか鈴鹿さんが現われていた。ただならぬ状況に鈴鹿さんの表情も切迫したものになっている。駆け付けて来たという事は、向こうでもこの異常を感知出来たのか。

「私がこの場を去った後に……」

互いに情報を交換し合い、現状を説明するが、説明の途中で鈴鹿さんもこの状況のもたらす結果を悟ったらしい。

だが、あの黒巣の子倅が叛乱の首謀者だなんて……

「手分けして探すしか無いですね。私と紅葉が足を使って探します。坊は何所が儀式場に使われるか推測していなさい。少しでも怪しいと思ったら私か紅葉を呼びなさい!」

そう言い残し、鈴鹿さんは暴風と共に飛んだ。おそらく、屋敷全土を目で見て回るつもりか。傍らの紅葉さんも既に全身を霞に変えて散っている。

探索の術式が使えない俺に出来る事は、儀式場として使用される可能性がある場所を推測するだけだ。すぐさま思考を開始し、意識を集中させる。

考えろ。この屋敷内で儀式場になり、尚且つ今まで見つからない場所なんてそうそうあるもんじゃない。挙げるとすれば夏月本邸と黒巣邸、それに敷地の中心にある――

やっぱり、あそこが一番怪しいな。

敷地の中心にある祀り蔵と呼ばれる建物。表向きは妖を封じるための祭壇だが、その実、都合の悪い存在を封殺するための、地下座敷牢がその下に存在する。

だが、この存在は宗家の夏月の当主と、実際放り込まれていた俺しか知らない。だから分家の皇嵩が知っている可能性は薄いが、そこぐらいしか考えられない。

屋敷の中心に位置し、尚且つ地下という概念的に根の国に近い場所。

条件としては十分だ。ここからも近い事だし、真っ直ぐ向かう事にする。これで当てが外れたら紅葉さんに何て言われる事か。せめて現状を確認してからでも連絡しよう。

「雪華さん、待ってて下さい。すぐに戻って来ますからっ!」

溶けて今にも苦しそうな雪華さんを置いて行くのは気が引けるが、連れて行く訳にも行かない。せめてでも、早く戻って来る事を心がけよう。

ここ―黒巣の敷地―から東、夏月本邸の南に祭壇は位置する。距離的にはそんなに離れていないのでそんなに時間はかからないだろう。

足に気を流して脚力を強化し、祭壇に向かって走り出す。動く度に妖気が四肢に絡み付いてくる。これが全て屋敷の妖達から流れ出ている……そう考えるとさらに焦りが募る。

皆が苦しんでいる。おそらく、死ぬ事は無いだろうが衰弱が続けばどんな影響が出るか分からない。雪華さんがその筆頭だ。

思考に耽る間もなく祀り蔵に辿り着く。この中に入るのは十数年ぶりか……

扉は重々しく閉ざされており、その扉自体にも護法が掛けられている筈だ。一応祭壇までは普通に行けるものの、そこから先に行けるかどうかはわからない。だが、せめて何かの痕跡さえ見つけられれば。

ここしか無い。いや、ここに在る筈だ。あの人が居た此処だからこそ。

扉に手を掛け、力を込めて引く。徐々に扉が開いて行くと同時、中から埃っぽい空気が鼻腔を擽るも、足元から逆に妖気が流れ込んで行く。

指先に炎を灯し、周囲を窺う。眼前には板目の舞台が広がっており、その奥に屏風に隠された通路がある筈だ。通路の先は倉庫らしき部屋に繋がっており、そこで行き止まりになっていた。祭具やら呪術具等が並ぶ中、怪しい所が無いか探す。

記憶を辿って地下への入口を探す。確か、ここらへんに……

「あった……」

不自然に祭具が置かれており、その下には符が貼られている。おそらく、符で繋がりを封じ、さらに祭具で封印自体を隠匿しているのか。

祭具を退かし、符を火術で焼き払う。これで確信が持てた。封印に使用されていた符が新し過ぎる。おそらくここ数カ月内に使用されたものだ。

下手に術で隠匿するよりも、祭具を使った方が感知されにくいのを利用してあるのか。だが、この前に施されていた封印はどうなった?仮にも封殺に使用される牢獄の封印がこんなに甘い筈が無い。分家筋の黒巣如きに破られるレベルじゃないのにどうして……

だが、今はそんな事を考えている場合じゃない。早く中を確認しなければ。

隠し扉を引き開け、階段をすっ飛ばして穴の中に飛び降りる。着地した先には岩盤をそのまま削り出した洞窟とも呼べる通路が。洞窟内は夏と思えない程寒く、吐く息は白く霞んだ。

通路を進む度に記憶が蘇って来る。妖でも人でもない存在の俺を監禁した牢。そして、その先に存在する座敷牢とその嘗ての主。

――嗚呼。気分が悪い。

通路をどんどん進んで行く。奥へ向かうと徐々に温まって行った。封印者への気遣い……いや、座敷牢の主への気遣いか。

通りがけ、横目で見た牢は埃が積もっており、長らく使用されていないという事がわかる。それだけが、心を少し軽くした。

間も無くして、通路の突きあたりに辿り着いた。そこは先程の通路とは一遍して、壁にも天井にも木で壁が作られており、後ろを振り向かなければそこが旅館の廊下と見間違えるだろう。

そして、目の前には木製の格子と、座敷牢。

だが、座敷牢は記憶と随分とかけ離れていた。木製の格子は真ん中から破られ、座敷は見る影が無い程荒れ果てていた。座敷の中心には大きな穴が開いており、眼下に巨大な空洞が口を空けていた。

……何より、座敷牢の主の不在が、胸を痛めた。

「この先に一体何が……」

間違いない。この先だ。

破れた格子を潜り抜け、その巨大な空洞に足を踏み入れる。大きさ的には家の廊下程の余裕があり、人が数人並んでも楽々通れるだろう。その上先に進むにつれ広がっている事から、この先はさらに広いのだろう。

天然の鍾乳洞だろうか。足元には水が流れ、鍾乳洞特有の尖岩は苔生す事無く湿っていた。しかし、鍾乳洞自体が淡く発光しているのはどういった原理なのか。

そして、今になると解る。頭上、地上からどんどん生命力が流れて来ている。地上に妖気が満ち、森に瘴気が充満し、そして生命力はこの先へと流れて行く。

おそらく、この先に今回の叛乱の要たる何かがある。

足早に鍾乳洞の通路を疾駆する。そして、通路が開け――

「な……何だ、これ…………」

通路の先には、高大な球状の空間が開けていた。一体どれだけの広さがあるのだろうか。ゆうに体育館程はあるだろう。眼下、その空洞の中心地には、

「ああ、遅いお着きですね龍侍さん。他の皆さんはどうしました?」 

沼地のように地面に存在する黒い孔。そこから溢れ出る瘴気を封じる三環の封印結界。そして、頭上からその孔へと流れ込む生命力。

俺は知らずの内に中心に居る人物に叫んでいた。

「皇嵩ああああぁ――!!」

やっとだ。やっと見つけた。皇嵩と式部。あの封印結界を破らせないか、黄泉路自体を繋ぐ縮地法を破れば終わる。

逆に言えば、今奴を止めないと大変は事態に陥る。だから、そうなる前に俺が――

俺があの二人を妨害出来れば儀式の進行が遅延する。仲間を呼ぶまでもない。今この場に居る俺がやらないで誰がやる!?

と、前までならそう考えていただろう。だが、今は違う。

たかが分家の小僧と、その乳母。その考えが命取りになる。だから、

「紅葉さん、見つけました!!皆を呼んで下さい!!」

だから、背中に憑依していた紅の霞へと叫ぶ。

「でかしたぞ!!」

背後から紅葉さんの歓喜の声が響く。

「厄介ですね、式部!!」

皇嵩の令で式部がこちらに跳躍し、傘の先端を紅葉さんの末端に向ける。今紅葉さんの末端を散らせる訳には行かない。この場所を外部に伝えられるのは紅葉さんだけだ。せめて、誰か一人でも駆け付けて来るまで俺が守らないと。

「さっ、せるかあああああぁ――――ッ!!」

こちらに飛んで来る式部に向かい俺も跳び、両手に炎を纏って拳を振りかぶる。

「だらっしゃあああああぁ――――!!」

先端から覗く銃口をカチ上げ、顔面向かって拳を降ろす。だが、巨大化した尻尾が俺を弾き飛ばし、洞穴の壁面に激突した。

だが、俺もすぐさま態勢を立て直し、再度式部へ飛ぶ。何としても、紅葉さんの末端を外部へ脱出させないと。そうしなければ全身を霞に散らした紅葉さんは鈴鹿さんに伝える事が出来ない。だから、何としても、この場は一歩も通さない。

「今度は俺が守る番だ!」

式部に体当たりをかまし、銃口をずらす。その隙に紅葉さんの末端は通路の奥へと。開封儀式で動く事は出来ない。式部さえ押さえられれば何とかなる。今度は、こっちが足止めする番だ。

銀線が閃く。唐傘から抜かれた仕込み刀は、正確に俺の首を狙う。が、

「炎舞・鳳仙火!」

それを無視して、掌から火術を放つ。首の半ばまで侵入する刃。だが、それ故にすぐさま回避行動に移れない式部は、至近距離で弾ける炎弾を喰らった。

「ぐっ……鬼子め」

そう、鬼子。人でも無くば妖でもなく。かといって半妖ですらない、本来存在し得ぬ作られた化け物。だが、この身が誰かの盾になれるのなら、俺は化け物でいい。

式部はさらに刀を振り抜き俺の首を完全に断つが、再び構えなおす頃には、すでに再生は終わっていた。

「炎舞・彗閃火!」

虚空に炎剣を精製し、射出する。しかし、それはいとも容易く傘に阻まれる。だが、それは計算の内だ。

傘の影からこちらを窺い見た式部は眼を見張った。まぜなら、至近距離に俺が現われていたからだ。射出と共に距離を詰め、炎を宿した掌を振りかざす。

式部は咄嗟にのけ反り、俺の掌は掠るにしか至らなかった。

「チッーー」

転じて式部は身を翻し、尻尾が唸る。

「二度と喰らうかっ!!」

だが、尻尾の影に潜んで迫る刀までは見切れなかった。刃は俺の眼を正確に狙い、一時的に視力を奪った。

「ぐっ……炎舞・沫離火!」

地面に倒れながらも牽制として前方に拡散する爆炎を放つ。が、

「せぇいっ!!」

式部の裂帛の気合と共に、顎下に衝撃が走り、脳が揺さぶられた。

斬り裂かれた目は再生され、既に視界は元に戻ったが、今度は脳に伝わる衝撃で前後不覚となった。

ぐっ……視界が回る。

式部が術を放とうとするのが見える。だが、体が思う様に反応しない。

「――唐竹崩し」

式部から放たれた術を避けようとするも、足が縺れる。無様に足を滑らせ、その身に術を受ける。と、術を受けた左肩から先が、朽ち果てた。

「チィッ!!起動!」

肩を自ら抉って新しく再構築させると同時、魔術を起動し魔弾を撃つ。それまでには眩暈もおさまり、平衡感覚が戻って来ていた。

「なっ――」

俺の強引な再生か、はたまた魔術の行使にか。それは一瞬の戸惑いではあったが、戦場においては十分な隙だった。

「炎舞・六天焦!」

咄嗟に魔弾を回避した式部だが、回避後にさらに回避行動を行うのは不可能に近い。態勢を戻すまでの一瞬を狙い、火術を放つ。放たれた六つの焔は式部を包囲するように六芒星を描き、その範囲内で燃え盛った。

「ぐっ、ああああアァァ――――!!」

全身を炎で焼かれ、式部が吠える。だが、そえでもその瞳から闘志は消えていなかった。

「朽月・病風!」

炎の向こう、刃に呪毒の乗せて放たれる、相撃ち覚悟の一撃。だが、それ故に斬線は読みやすく、

「凍て漬け、蒼炎」

刃に纏わり付く呪毒を、蒼の炎で妖気ごと凍らせる。そして、

「――浄炎」

自ら炎の中に飛び込み、式部へ拳を叩き込む。透通るような真っ蒼の炎は、式部の妖気を燃やし尽し、その身から力を奪った。

がくりと地に伏せる式部。だが、死んではいない。動けないだけで意識はある。

「はぁ……はぁ…………」

ともかく、式部を倒した。残るは皇嵩だけだ。皇嵩はまだ開封の最中で動けない。

「皇嵩ッ!!」 

その時、頭上から声が響き、鈴鹿さんと紅葉さんが降って来た。それに遅れる形で霊緒さんをかついだ富嶽さんも。 

「大丈夫か、馬鹿弟子!?」

真っ先にこちらに駆け寄る紅葉さん。

「何とか……たまは一緒じゃないんですか!?」

「ああ。雪華を任せてある。それで、首尾はっ!?」

式部を倒した事を伝え、早く皇嵩を止めるよう告げる。だが、それは先刻承知のようで、既に霊緒さん達は皇嵩に向けて駆け出していた。

「皇嵩、終わりです!!」

最速の鈴鹿さんが刹那で距離を詰める。音速を超えた速度で放たれる手刀は、衝撃波を纏って皇嵩を吹き飛ばす……筈だった。

「何っ!?」

鈴鹿さんが、見えない壁に阻まれたかのように動きを止め、そして弾き飛ばされた。

「護法結界かッ!?」

皇嵩め。座敷牢に掛けてあった術を破るんじゃなく、鬼門遁行で結界の範囲を別の空間に繋げたのか!?

「富嶽!壊しなさい!!」

「承知ッ!!」

富嶽さんが吠える。刹那、その丸太のような腕がさらに数倍に膨れ上がる。怒号と共に放たれる拳が、結界を打つも、破壊するには至らない。

「おい、バァさん!!私達も、」

「止めなさい!」

両腕を霞に変えた紅葉さんも火勢しようとするも、霊緒さんに止められる。

「あの結界は術を返します。富嶽に任せるしかありません」

物理的にしか壊せないのなら、結界の基盤を狙うか……

確か、この手の結界は地下を通る霊脈のエネルギーを利用して起動していたと思う。だから、何処かに基礎となる結界材が存在する筈なのだが……

鬼門遁行で場所を移しているとしても仕組みは変わらない。どこからか、結界を稼働させる為に霊脈からエネルギーを吸い上げている筈だ。

だが、周囲を見渡すも結界の基礎となる結界材は見当たらない。だとしたらどうやって龍脈から気を流している!?

――もしかすると!?

「紅葉さん!天井を破壊してください!」

神楽が以前俺に色々教えてくれたが、確かそんな作りの結界があった筈だ。

「今はそれどころじゃ、」

「早くッ!!」

「お、おう!」

力を込めた俺の怒号に、紅葉さんは一拍遅れながらも紅霞で天井を破壊した。轟音と友に天井の一部は崩れ、頭上から鍾乳石が雨のように降り落ちる。

「破れたぞ!!」

落下する岩に下敷きにならないように注意していると、土煙の向こう側からに富嶽さんの声が響く。やはり、想像通りだった。洞窟のような閉ざされた特定条件下では、稀に地形そのものが地脈から気を引き出しやすくなっている。結界について神楽に聞いたとき耳にした事だ。

――ともかく、結界は解かれた。あとは皇嵩を止めれば終わる。皇嵩に向かって駆け出す。すると、傍らにも風を感じた。どうやら紅葉さんも俺に並走しているらしい。

「皇嵩ああアァァァーーーーッ!!」

俺達だけじゃない。霊緒さんも富嶽さんも鈴鹿さんも、皆一様に皇嵩へ向かって駆け出していた。そして、あと少しで皇嵩へ届くまでの距離へ至り、

刹那、背筋に悪寒が走った。いや、悪寒なんてレベルじゃない。圧倒的な威圧感と絶望感が同時に体を押しつぶす感覚。

空気が変わった。妖気が満ちる重苦しさではなく、死を連想させる息苦しさへと。

「なっ……」

誰もが、足を止め、頭上を仰いた。その視線の先には、綻び始めた円環状の封印結界が。既に三つあるうちの一つが解かれ、黄泉路へと繋がる孔の上部からは、地上に満ちていたものとは比べ物にならないほど濃密な瘴気が滲み出ていた。

そして、いままで振り返る事無く開封を行っていた皇嵩が笑顔でこちらを向く。

「ククク――さて、一足遅かったね。残念ながらもう手遅れだよ。根の神の顕現は誰にも止められない。」

今までの落ち着いた物腰とは異なった、歓喜を孕んだ年相応の表情。その顔を見て悟る。俺達は、間に合わなかった。

「皇嵩!!お前は……」

怒りと悔しさが混じった怨嗟の声を零す。

「はっはっは!見たか鬼子!我等に勝ちだっ!」

地に伏したままの姿で式部が笑う。

そうしている間にも順々に封印は解けて行き、それに比例して周囲を支配する圧倒的な存在感は大きくなっていく。

こんな威圧感感じた事が無い。これが正真正銘、根の国におはす神の存在感。瘴気は常人が少しでも吸えば瞬く間に朽ち果てるであろう致死性を孕み、妖気は噎せ帰るまでに濃密になって行く。だが、そんな些細な事はどうだっていい。俺達は揃って、絶望的なまでの実力差に圧倒されていた。鬼が何だ。退魔師が何だ。不死が何だ。そんなのは人の世での縮尺だ。高天原や根の国には、俺達の認識出来る範囲外の存在が居る。

すでに封印は殆ど解かれている。知覚出来るのは、ただ絶望と畏怖のみ。

――そして遂に、その封印が解かれた。

―神の証明―

封印が、解かれる。瘴気を封じていた三環の帯状結界は上から順に解けて行き、そして遂に最後の封印が解かれ――

「これが…………」

言葉が出てこない。富嶽さんも紅葉さんも鈴鹿さんも、そして霊緒さんも。息をする事すら憚れる重苦しい圧力。黄泉路より直に溢れる致死性の瘴気よりも、その存在感だけでこちらの身が千散りになってしまいそうで。

その姿は麗しいものの、その外見とはかけ離れた禍々しさがその身を覆っている。

退魔師の祖、神殺しの一族はこんな存在を相手にしていたというのか。

知らずに俺は、両膝を地につけ、頭を垂れる格好となっていた。独特の寒気が背筋を襲う。この存在は戦うだとかそんな次元の存在じゃない。畏れ、敬うだけの、人知を超えた高次元の存在だ。人の身でどうこうできる存在じゃないんだ。

その姿は半透明で、未だ現世に顕現していない事がわかる。

たしかに、こんな存在が現世に顕現すれば混乱どころじゃない。社会そのもの……いや、世界の構造自体が一変する。

誰もが硬直し言葉を発せない中、皇嵩の高笑いだけが洞穴内に木霊していた。

「これが神ですよ霊緒さん!僕はこのお方と共に世界を変える!!人が神を畏れ敬い、妖達が夜を再び跋扈する世に!」

謳うように語る皇嵩は、神様に振り向き、地に座して頭を深く垂れた。

「御前で失礼ながら、御名を御伺いしたく存じます」

その存在は、今人間達の存在に気付いたかのように、億劫そうに視線を下げた。 『吾は、櫛名田。根の国の神にして澱の姫よ』

発せられた声は、魂を凍らせるような響きを持っていた。

俺達は何も出来ない。いや、その何かを行う権利すらない。退魔守護職の霊緒さんでさえ、下手な動きをすれば即座に魂から掻き消されるという事を察しており、様子を窺っている。こうなれば、せめて自滅覚悟で澱神が現世に完全に顕現するのだけでも阻止しなければならない。その為には、この場に居る全員は命を捨てる覚悟を持っている。 『妾を起こすとは何事か』

駄目だ。声を聞くだけで精神が折れてしまいそうだ。反して、皇嵩は自分に酔っているのか、微塵も恐れを見せずにいる。

「畏れ多くも、姫様の力を借りたく存じます」

櫛名田姫は、眼下を睥睨し、皇嵩の説を黙って聞く。

神を忘れた人間の所業を。迫害され存在を消された妖の末路を。

黙って聞いていた櫛名田姫は、一つ二つ頷くと、口を開いた。 『かような事、妾の知った所ではあるまい』

皇嵩の高説に否定的な櫛名田姫の言葉に、今度は皇嵩も硬直した。

「なっ、何の為に御身にお越し頂いたと、」 『笑止。汝の呼び声に応じた訳ではあらぬ。懐かしい匂いに惹かれて来れども姿が見えぬとあらば長居は無用よ。それに、』

皇嵩を見下し、櫛名田姫は斬った。 『神の名を騙るとは笑止千万。その神を利用するという考えが気に食わぬ』

「なっ、御身は神をも畏れぬ人の所業を何とも思わないというのですか!?」 『ああ。思わぬ。元より妾は根の国の者。幽世の事とあらばかくも、現世の事は関与せぬ』

これが、神か。人の世に介する気まぐれ。人が神を忘れた?否、神が人を見捨てたのか。この高慢さこそが神の証明。ただ供物を求める荒神。それが、この櫛名田姫か。 『じゃが、神を畏れて尚、妾を呼び出したのだ。覚悟はあろうな?』

櫛名田がそう告げた刹那、紅葉さん達が呻いた。富嶽さんも、鈴鹿さんも式部も、そして皇嵩も。

「ば、馬鹿な……」

「気を確かに持ちなさい!!」

無事なのは、俺と霊緒さんだけだ。他の皆は全身の力が抜けたように地に伏し、息も絶え絶えに細い息を吐く。

櫛名田姫を中心に妖気が集い、吸い取られて行く。俺と霊緒さんが無事だという事は、生命力よりま妖気を多く喰らっているのか。大妖怪クラスの富嶽さん達ですら倒れるぐらいだ。だとしたら、ものの数刻で死体の山が出来上がってしまう。 『神に謁見した代償よ。汝等の魂、貰うていくよ』

は、は、は――と嗤い、櫛名田は地の底へと飲み込まれて行った。だが、蒐集は止まらない。この場の妖だけではない。地上からも絶え間無く妖気と生命力が黄泉路へと流れて行く。ともすれば、いずれは魂が吸い込まれてしまうだろう。

櫛名田は魂だけではなく、生命力や妖気まで、根こそぎ持って行くつもりか。下手すれば、屋敷どころか山下の町にまで影響が……

「皇嵩!黄泉路を閉じぃ!!」

霊緒さんは皇嵩の襟を掴み、引き摺り起こすが、皇嵩は力無く首を振った。

「無理だ。僕は道を繋げただけでしか無い。扉自体を開けたのは櫛名田姫様。こちらからでは扉に干渉出来ない」

「ならどうすりゃいいんだよ!?」

こちらからでは閉じられず、櫛名田は開け放したまま根の国に帰った。このままでは黄泉路が開いたまま、際限無く魂が黄泉路へと流れて行ってしまう。

「とりあえず、この場から離れましょう」

霊緒さんの言う事は尤もだ。紅葉さんが崩した天井、そこに開いた穴から地上へ飛ぶ。

既に洞窟内は瘴気が溢れ、その渦の中心に妖気や生命力が流れ込むかたちになっていた。瘴気は地面に開いた穴の淵まで溜まり、いつ溢れ出てもおかしくはない状況だ。

「こんな筈じゃ……これじゃ、我等は一体何の為に――」

振り返ると、肩で息をするのもやっとな式部に抱えられた皇嵩が、頭を抱えて呟いていた。そう、この世に神を顕現させ、強大な旗印と共に旗揚げをする筈だったのだ。それが、正真正銘の神様の気まぐれで、その計画が一気に瓦解したのだ。子供が表立って妖怪を率いて旗揚げしても、それではただのテロだ。粛清が目に見えている。だからこそ、圧倒的な存在と力を有する神の存在が重要だったというのに。

一体、この計画にどれだけの時と手間をかけたというのか。皆を纏め上げ、己の存在を認めさせ、黄泉路を開き、夏月本家へ叛旗を翻して。

だが、今はそんな事知ったこっちゃない。

遂に瘴気は穴の淵から滲み出て来ている。瘴気が蝕む影響で妖達は術を使う所か、その場に倒れ込んで浅い息を繰り返している。あの紅葉さんですら何も出来ない状況だ。普通の妖にとっては一刻を争う事態に値する。

「皇嵩!!黄泉路を何とかしろっ!!このままじゃ、結界すら侵食して瘴気が下界へ流れ出る!!」

そうなったら大事だ。屋敷や周囲の妖達だけじゃない。共生に成功している穏健派の妖の住む里はおろか、人間界にすら――

「く、ははははは――」

刹那、皇嵩が奇妙な笑い声を上げた。

「何が神だ。神など、自分勝手な存在でしかないじゃないか。崇め奉られていても、所詮は偶像。現世の事など、結局は他人事か!!食うだけ喰らい、奪うだけ奪ってまた眠りこけるか!?

こうなったら、このまま瘴気を放ってしまおう。人間界が混乱すれば、そうすれば、」

「手前ェ……」

皇嵩の言葉に、カッとなった。

「この森の周りに、まだ手前ェの仲間が倒れてるかもしれねぇんだぞ!?そんな事したら人間だけじゃねぇ、お前の仲間達まで巻き込むぞ!?」

神の顕現に失敗した以上、この計画は既に瓦解している。元より、分の悪い賭けなのだ。妖怪が名乗りを上げるのと、神が名乗りを上げるのでは意味合いが違っただろう。だが、それだけだ。この計画には、妖怪が存在し、神に擁護されているという事実が必要なのだ。神の一声なればまだ可能性はあっただろうが、妖怪単体が名乗りを上げても恐怖に満ちた迫害が待っているだろうし、武力制圧に乗り出せば他の退魔守護職が黙ってないない。

だから、

「諦めろ皇嵩!お前たちの計画は、もう瓦解してるんだ!!」

「黙れ!!ここまで、一体どれ程の労力がかかったと思っている!?皆の願いを背負い、皆の嘆きを抱え、我等の恨みを人間共に知らしめなければ!!でなければ、我等の苦労が水泡に帰してしまう。今ここで止まる事など出来ん!!」

駄目だ。言葉が届かない。皇嵩は、何としても世間に妖の存在を知らしめたいのだろう。

既に目的と手段が入れ替わってしまっている。

総大将とはいえ、まだ子供か。感情に流されて、先が見えていない。

「こうなったら、力尽くでも止めるぞ」

何より、時間が無い。刻一刻と瘴気は溢れ出で、それに比例して妖達が弱って行っている。早く黄泉路を閉じなければ、最悪死人が出る!!

「龍侍、儂が黄泉路を閉じる!!お前は皇嵩を止めい!!」

霊緒さんが叫び、洞穴に澱む瘴気に向かい走り出す。それに続き俺も皇嵩に向かって精製した炎剣を投擲しようと腕を振り上げる。

「ここで……ここで立ち止まる訳にはいかないんだッ!!」

皇嵩の叫びと同時、封印の術式を展開しようとした霊緒さんに瘴気が纏わり付いた。瘴気は術式を構成していた『気』を喰らい、

「何ッ!?」

霊緒さんの封印術式だけではない。俺が握っていた火術の炎剣すらも瓦解していた。術を起こすに必要な燃料である『気』が、瘴気によって変質してしまっている。

「人の身で瘴気を操るだと!?」

無茶だ。元よりこの世のものではない瘴気を操るなんて、根の国の住人ですら出来るか疑わしい事を、何故皇嵩が……

「炎舞・護帝灼炎!!」

瘴気を焼き尽くさんと、霊緒さんの握る煙管から炎が吹き荒れる。霊緒さんが焔を纏った煙管を振り回と、それはまるで天を巻く蛇の様に霊緒さんを覆い、周囲を焼き尽くしながら領域を広げる。

「天焦焔矢!!」

叫ぶと同時に振り下ろされる煙管。それに少し遅れる形で、炎蛇が鎌首を皇嵩に向けて振り落ちた。

周囲の妖達に被害が及ばぬように凝縮されたソレは、即ち通常よりも濃い密度を有しているという事。地表すらも融解させる火力の炎蛇はしかし、

「チッ――これでも駄目かいの」

皇嵩に近づいた段階で、周囲に纏った瘴気によって阻まれ、そして術が崩壊した。

「もう終わりですか霊緒さん。なあば、こちらから行きますよ」

言い終わると同時、皇嵩が疾った。

「させるかっ!!」

紅葉さん達が動けぬ今、皇嵩を止められるのは霊緒さんと俺だけだ。

視界の端に、倒れた妖達が移る。少なくとも、皇嵩は妖達の未来を憂いて叛旗を翻していた。だが、今の皇嵩はどうだ。仲間すらも犠牲にし、ただ己の目的を果たさんとしているだけだ。その上、目的すらも瓦解している今になっては、ただの暴走だ。

――俺が止めないで、一体誰が止めるというのだ。

「龍侍!こちらには構わず皇嵩を止めい!!」

俺は霊緒さんに向かってコクリと頷き、劫火を纏って黄泉路に向かい、縦孔を飛び降りる霊緒さんを見送った。皇嵩は霊緒さんを妨害しようと動くが、今度は俺が皇嵩に向かって駆け出す。

「ええぃ、鬼子の分際でッ!!」

先の様子から、『気』を用いた術では瘴気を突破出来ないのは明白だ。霊緒さんの火術で突破出来ないのだから、俺の火術では無理だ。そう、火術だけでは。

蒼炎を纏った腕と、瘴気を纏った拳が交錯する。妖気を凍らす蒼炎も、瘴気の前では効果が無いのか、拳同士が接触したと同時に炎の色が黒く変色した。

「チッ――」

すぐさま炎を散らす。そして再び腕に新しい炎を灯し、皇嵩が放つ拳に合わせる。

「退け、鬼子!貴様とて人間の被害者だろうが!!幽閉されていたのであれば、我等の痛みが解る筈!だのに何故、我等の邪魔をする!?」

皇嵩の言葉も最もだ。恐らく、この中で俺が一番痛みを知っている。大切なものを奪われ、居場所を失い、存在自体を否定され続けてきた。

でも、復讐では何も変わらない――なんて安っぽい科白は吐かない。ただ、助けられたのが霊緒さんだったから、その理念に賛同しただけかも知れない。もし、もし拾われたのが皇嵩達の立場の者だったら、俺はまだ復讐に溺れていたのだろうか。

何故、皇嵩と相容れないのか、わかった気がする。

こいつは、自分に似すぎているんだ。

ひねた目でしか世界を見れず、悲劇の主人公気どりでヒロイズムに浸って、そして復讐に溺れる。まるで、昔の自分を見ているようで、

だからこそ、こいつに言ってやりたい。選択肢は一つじゃないと。違った目で世界を見れば、世界も違った色を見せてくれるという事を。

「答えろ、鬼子!貴様は、貴様は何を以て我等を阻む!?」

拳を放ちつつ、皇嵩が問う。襲い来る拳をいなし、かわして、炎を解き、そして灯しつつ、その言葉に応える。

「……るか。ただ、お前が気に食わねぇだけだ!!」

腕に纏わせた炎の下に、魔術を宿す。その効果は、魔力炸裂。

拳を放つ。

「年上には、敬語使えぇえええ!!」

皇嵩が纏う瘴気に触れる。今まではここまでしか届かなかった。何度も繰り返した応酬だが、今度はそうはいかない。接触と同時、瘴気が炎を蝕む。その瞬間、

「解放、炸裂!!」

宿した魔術式を解放する。それは何の特性も無い、純粋に魔力を炸裂させただけのもので、実戦ではほとんど役に立たないだろうが、今この時だけはある効果を引き起こす!

「何だと!?」

炸裂した魔力は大気中に拡散した霊子を吹き飛ばす。霊子とは、大気中に存在する霊的な要素だ。龍脈を通るそれは『気』を錬るのに必要な燃料のようなもので、西洋で言う魔力に似ている。

拡散された霊子は、『気』や魔力だけではなく、瘴気すらも例外無く攪拌して吹き飛ばし、

結果、魔力が炸裂した場所に、空白が生まれる。それは即ち、俺の拳と皇嵩の顔の間に何も無いという事で、

「歯ァ喰いしばれッ!!」

皇嵩を殴り飛ばした。

拳を放ち、それが皇嵩の顔に届くまでの1秒にも満たない驚愕は、皇嵩にとって最大の隙となった。

拳は、届く。だから、勝てる。

霊緒さんの火術すら防ぐ瘴気は、無敵ではない。

だが、初めて拳が通った事で浮かれていたのだろう、皇嵩が放った拳が、俺の顎を捉えた。しかし、関係無い。

元よりこの身は、殺戮機構。超速再生能力を有する化け物なのだから。損傷を無視しての活動を求められたこの身に、傷など無意味。

続けざまに、今度は左拳を、カウンター気味に皇嵩へとブチ当てる。魔力を拡散術式にあてているために肉体強化の魔術は使えないが、人間相手には充分ッ!!

「化け物めっ!!」

皇嵩の拳が迫る。だが、今度は無視してこちらも拳を当てに行く。

――ガツリ、と互いに相手の拳を喰らい、腕を交わす形になった。

ふと、皇嵩と目が合う。当初目的を見失っていた皇嵩の眼に光が見える。それは、こちらを倒し、先に進む為の決意の光だ。少なくとも今、皇嵩は一つの目的に向かって進もうとしている。先のような暴走は無く、俺一人しか目に映っていない。

なれば、今の皇嵩を止めれば何とかなる筈ッ!

「だったら、ますます負けられねぇ!!」

「退けッ!!我等の道を遮るな、鬼子!!」

拳と拳がぶつかり合う。それは、意地の応酬にして、意志の発露。次の未来を担う戦いは、最も原始的な手段で、最も結果が明白に分かれる方法で始まった。

―半妖の過去、嘆きの世界―

―鬼子の過去、痛みの世界―

―決着、その終着―

視界が赤く霞む。もう、どれだけ拳を受けたのか。相手は人外の化け物で、こちらは半妖といえど子供に過ぎない。

常人……いや、普通の妖怪ならば既に倒れても可笑しくは無い筈の数を喰らっておきながら、未だに僕は立っていて、そして拳を放っている。

といっても、足は立っているのがやっとな程で、今にも崩れ落ちそうだし、放つ拳なんて力の入っていないのと同義だ。

だというのに、目の前の敵は僕の前に立ちはだかり、僕と相対している。

霊緒のやり方では時間がかかり過ぎる上に、机上の空論だ。あれでは、今を生きる僕達に犠牲となれと言っているのも同じだ。

そんな夢物語に酔う時間など無い。今この瞬間にも、虐げられている妖が居る。だから僕は、今を変える。

人間が妖を畏れ、僕等が生きられる世界を。

その為には、退魔師達と戦うだけでは駄目なのだ。人間達に痛みを知らしめなければならない。

なのに、一番痛みを知っている奴が、僕の前に立ちはだかる。

僕は間違っていない。全ての行動に責任がともなうならば、人間達は僕達を虐げた業を背負うべきだ。

言葉は発しない。今、この場に言葉はいらない。だから、代わりに拳を放つ。目の前の奴はそれをかわす事無く、顔で受け止め、その代わりと拳を放つ。

感覚が麻痺でもしているのか、不思議と痛みは無く、拳を放たねばなるまいという義務感だけが体を突き動かす。

だが、瘴気を纏った代償か、徐々に意識が遠のいて行く。元より、現世の者とは相反する物。半妖如きが扱うのもおこがましいか。

そして、遂に膝から下の感覚が無くなった。

――負けるっ……

ここで、膝を折ればおそらく、もう立ち上がれまい。そうなれば、僕達の叛逆も潰えるだろう。

ゆっくりと視界が傾き、地面が近づいて来る。

その時、

「しっかしりろぃ、大将!」

僕の耳に、聞き馴染んだ声が届いた。

目の前の敵に集中し、周囲の状況を一切介さなかった僕に不意に届いた言葉はしかし、転倒をこらえる力を与えるには十分だった。

「お前たち……」

続けて、式部の声が届く。力を振り絞って倒れるのを堪る。そして、顔を上げて周囲を見るとそこには富嶽の足止めを任せた面々が並んでいた。

「大将!そんな奴に負けんなよ!」「頑張って!皇嵩様!!」「ワシ等の未来、預けたぞい!!」

瘴気の影響でまともに動けぬ筈だというのにも関わらず、重い体を引きずって、瘴気を撒いた本人を応援するなんて、馬鹿げている。

だが、それでも、僕を支えるには十分過ぎる程だ。

目の前の、コイツにだけは負けられない。

瘴気は霊緒に任せよう。あの人ならば、どうにか出来るかも知れない。しかし、今この場を離れれば、我等の計画に穴があったと認める事と同義だ。それで皆の心が離れれば再度立て直すのは難しいだろう。

今すべきなのは、霊緒さんを信じつつ、目の前のコイツを倒す事だ。その後で、霊緒と一騎打ちすればいい。

精一杯踏ん張り、拳を振りかぶる。放たれた拳は真っすぐアイツの顔面に吸い込まれる。だが、殴られてなお、アイツはのけぞる事すら無かった所か、アイツは、笑っていた。

不謹慎だ、とは言うまい。下で霊緒さんが黄泉路に相対しているとか、周りで妖達が瘴気に苦しんでいるとか、この戦いに夏月家の未来がかかっているとか、そんな事を通りこして、この瞬間が心地良い。

わかった気がする。僕は、自分と対等の相手が欲しかったんだ。僕を蔑むでもなく、慕うでもなく、真正面から向き合う奴が。

だから、こちらも全力で、真正面からぶつかって行く。

相手の拳を避ける事無く、殴られてもお構いなしに殴り返す。

いくら向こうが再生能力を有していると言っても、不死という訳ではあるまい。傷は再生出来ても体力までは回復できまい。この勝負は、気力が勝敗を分ける。

ならば、僕が負ける筈が無い。何せ、瘴気に蝕まれた体を引きずってまで馳せ参じる莫迦共が、僕にはついているのだから。

対して、霊緒派は少数。他の者は日和ったか、傍観を決め、他人事でしかない妖ばかり。そいつ等と僕達とは決意が違う。

だから、だから僕は、絶対に負けない。

僕もアイツも、背負うものがある。それにはどちらがより重いかなんてない。どちらも、自身にとっては一番重いものだ。

だから、僕の拳もアイツの拳も等しく重い。それは、背負っているものの重さなのだから。その背負っているものを拳にのせて放つ行為こそ、ここでは決意の表わしだ。

ふと、正面の敵を見れば、犬歯を向き出しにして笑っていた。その瞳はギラギラと光り、こちらの眼に再び火が灯ったのを喜んでいるかのようだった。故に、相手の拳も、僕と同じく重いものとなる。

拳が交わり、互いに相手の拳を喰らう。僕の拳はアイツの顔に、アイツの拳は僕の腹に。避ける事を放棄し、全身全霊を一撃に込めた拳は、今までで一番重いものだった。

感覚が麻痺していて解らなかったが、見ると腕はパンパンに腫れ、拳は赤黒く、砕ける一歩前にまでなっていた。相手も外傷は無いが、足元がおぼつかず、立っているのがやっとと言った様子。

――おそらく、次の一撃で勝負が決まる。

いつしか、瘴気を纏う事も忘れていた。

だからもうこれは、ただの殴り合い。ガキの喧嘩だ。

次の時代を担う戦いがガキの喧嘩で決まるなんて、馬鹿げている。だが、そんな事態に至ったのは、正しく僕達の行動の結果だ。叛旗を翻した黒巣が悪いのか、傍観に徹する青柳が悪いのか、妖を道具としか見ない先代の夏月が悪いのか、未だ都合の良い希望に縋る霊緒がわるいのか。

そんな事は最早どうでもいい。僕達は僕達を守る為に戦う。今やるべきなのは、目の前の敵を倒す事ッ!!

正真正銘、最後の力だ。こえが互いの最後の一撃になるだろう。その証拠に、相手は今までより大きく拳を振りかぶっている。こちらもそれに合わせ、長い溜めで拳を引く。

そして、拳が放たれ、互いの腕が交差し――

―陸奥内乱―

「……馬鹿げている」

崩れ落ち、息も絶え絶えに喘ぐ皇嵩を見降ろし、こちらも荒い息で聞く。

「…………何がだ」

皇嵩は血が滲む所ではない、腫れて青痣だらけの顔でこちらを睨む。唇が切れたのか、唇の端から血が流れ、それを拭って言葉を返す。

「こんな展開も、こんな結末も、だ」

確かに、仲間すら巻き込んだ瘴気の奔流で人間界に攻め立てる筈が、最後は殴り合いのガキの喧嘩だ。

ああ。確かに馬鹿げている。とんだ茶番だ。結局は霊緒さんが黄泉路を閉じるまでの時間稼ぎ。この殴り合い自体に深い意味も何もない。

いつしか瘴気の流れは止まっていた。瘴気の源泉の方は、どうやら霊緒さんがカタをつけてくれたようだ。

「黄泉路は閉じたぞ」

最後の一撃で倒れたのは、皇嵩だった。その上、便りの黄泉路は霊緒さんに閉じられ、叛乱に加担した妖怪達は瘴気に巻き込まれ満身創痍だ。もう、皇嵩陣営は動くことが出来ない。

「だからどうしたというのだ」

だというのにも拘らず、皇嵩の目から闘志は消えていなかった。

「黄泉路は閉じた。僕は倒れ、皆も動ける状態じゃあない。――で、それがどうした!?お前達が勝てば迫害が消えるのか?僕たちが負ければ救われるのか?もう一度言う。だからどうした?」

確かに、俺たちは正義の味方じゃない。俺たちが皇嵩の叛乱を止めたからといって、妖の境遇が変わる訳でもない。だが、それでも――

「それでも、何か出来る事はあるだろ」

この闘争には、元より何の意味も無い。互いの主張の押し付け合いだ。だが、それでも皇嵩たちは負けた。だから、

「なぁ、俺達の事も、人間の事を、もうちっと信じてくれないか?手段こそ違っちまったけどさ、想いは、その始まりだけは、一緒だったんだからよ」

互いに、妖を思っての行動だった。悲しいほどにすれ違ってしまったが、その根底は、その思いは本当だったのだ。

ならば、手を取り合えば、きっと――

だから俺は、皇嵩へと手を差し出す。

「…………本当に馬鹿げているな。理想論を語る奴の仲間は、熱血青春馬鹿か。殴り合って友情が芽生えるとでも思っているのか」

皇嵩は息も絶え絶えに皮肉を吐きだすと、倒れている姿勢から俺を見下すという器用な真似をやってのけた。

やっぱ、最後は力で押し通すしかないか……

「まぁ、」

こちらが諦めて手を引こうとしたその時、皇嵩がふとしたら聞き逃してしまいそうな小声で、

「お前に殴られて腕が上がらない。僕の事より今は霊緒の事を心配しろ。生身で瘴気が溢れ出る黄泉路を閉じに行ったのだ、無事では済まい」

確かにそれはそうだが、それでも今この場を放棄する訳にはいかない。だが、同時に霊緒さんが心配なのも事実だ。

どうしたものかと躊躇していると、皇嵩は嘆息し、穏やかな声色で俺を諭した。

「安心しろ、逃げはせん。それに、負けたのも事実だ。もう腹は決まっているんだ」

「悪い。助かる」

言うや否や縦孔へと走り、一気に飛び降りる。瘴気は底の方で澱んでいたが、構わず浄炎を纏って瘴気を突き破る。元栓が閉じてある状態では瘴気もこちらの術を侵食出来ても害自体は軽減される。

炎で瘴気を散らしながら、縦孔の底へと着地する。密度の濃い瘴気が澱のように溜まり、澱む底には、霊緒さんの気配は感じられなかった。

「霊緒さん!!」

自分の周囲の瘴気を、魔力炸裂で吹き飛ばす。一気に視界が広がったものの、その巨大な洞穴の全域は見渡すまではいかなかった。

目に見える範囲に霊緒さんは見当たらない。これ以上の魔力炸裂は無理だ。浄炎もいつしか霊力不足で維持出来ずに霧散してしまっている。

こうなったら、魂を削って探索術式を組み立てようか、

そんなふうに思慮を巡らせていると、不意に霊緒さんの声が脳裏に響いた。 (聞こえますか、龍侍さん)

「はい!」

脳裏に響いたのは霊子を媒介とした遠話術だ。その声に咄嗟に返事をする。良かった!とりあえず霊緒さんは生きている。

「何所に居るんですか霊緒さん!?」

だが、瘴気の薄まって来た洞穴内には、霊緒さんの姿は相変わらず見当たらない。 (龍侍さん、心して聞いて下さい)

おかしい。どうして姿を見せないのか。こうして声が聞こえているし、黄泉路は閉じている。だというのに何故、こんな深刻な声色なのか。

「霊緒さん?」 (貴方に、当主の座を譲り渡します。いえ、正確には当主代理という形ですが、当主とほぼ同格の権限が与えられます)

告げられた言葉は、信じられない内容だった。

「いきなり何を言い出すんですか!?内乱も収まってやっとこれからだっていうのに、俺には荷が重すぎます!!それに、どこに居るんですか!?」

瘴気は風に流され、洞穴内に遮蔽物が無くなったにも関わらず、そのどこにも霊緒さんは見えなかった。ただ、黒々とした水面のような黄泉路の入り口が地面にぽっかりと在るのみで、静か過ぎる程だった。 (一度開いた黄泉路を閉じるには、私では力及ばず完全に封じるには無理がありました。故に、あえて黄泉路の向こう側に渡り、道敷大神の変わりに私自身を要石にしています)

そんな馬鹿な。人の身で黄泉路を渡るなんて自殺行為に等しい。それに、自身を要石にするなんて、人柱以外の何者でもないじゃないか。

「そんな……」 (これによって一時的に幽世と現世を隔てる事が出来ている状況なのですが、あくまで一時的なものでしかありません)

霊緒さんが、陸奥の退魔師の当主が身を呈してこれか。 (この先、何があるかわかりません。そのうち遠話すら通じなくなるでしょう。もう、私は死んだものとして構いません)

「何を馬鹿な事を言ってるんですか!?それに、当主なんて俺には重すぎます!!」 (龍侍さん、私とて人の子。いづれは散り逝く身です。今回は、その時期が早まっただけの事。それに、この町を……私達の町の礎になれるのであらば本望です)

「それは違います!この町にとって霊緒さんはなくてはならない人なんだ!!」

決して人柱になるべき存在じゃない。今まで霊緒さんはこの町の為に、いや、妖怪と人間の為に尽力を尽くしてきた。その存在は俺達にとって、かけがえの無い大きなものとなっている。

「本当にこの町が好きなら、最後まで見届けて下さい!まだ俺達には霊緒さんの助けが必要なんです。まだ学ぶ事だってある。それに、まだ俺は、霊緒さんに恩を返せていないじゃないですか!!」

声を張り上げて、叫ぶ。それは本心であったし、同時に事実でもある。それ程まで、霊緒さんの存在は大きい。だが、 (時代はいづれ移り行くもの。そろそろ次の世代へ託す時が来たのですよ。遅かれ速かれ、家督は譲る気でしたからね。それに、龍侍さんがこの町の事を憂い、想ってくれているだけで十分です。あの日、貴方と出会ってからもう数十年が経ちました。この町がここまでこれたのには、間違いなく龍侍さんの協力があったからです。世間知らずの小娘だった私の理想に共感し、手を貸して頂いて有り難う御座います。大丈夫ですよ、龍侍さんも、皇嵩さんも、妖を守りたいというその理想は、同じなのですから。黒巣と夏月、そして他の分家が協力すれば、必ず、)

「やめて下さい!!そんな……そんな遺言みたいな言い方!!」

霊緒さんの言ってる事がわからない。いや、理解したくない。人の身で黄泉路に入ればどうなるか。黄泉路が閉じなければどうなるか。この内乱の結果として現れた問題に、一体誰が責任をとるべきなのか。わかってはいる、わかってはいるんだ。

霊緒さんはこの内乱が起きた責任を、自分ひとりで背負ったんだ。

霊緒さんの方法は、この状況では一番理に適った、たった一つの方法だった。だけど、それを受け入れるのは、また別問題だ。 (貴方は、本当に……誰かが犠牲になるのを忌避するのですね)

霊緒さんの声色は、とても優しいものだった。 (その優しさが、思い遣りこそが貴方の美点です。貴方の過去に何があったのかはわかりませんが、これは、私の決意の上での事。どうか、否定だけはしないで下さい。貴方が誰かの犠牲を忌避するように、私も他の誰かが傷つくのが嫌いです。他の誰かが傷付くのであれば、私が率先して犠牲になりましょう)

霊緒さんの言葉には後悔も悲嘆も無く、その決意を示すかのように凛とした声色だった。その言葉を聞いて、俺は反論出来なくなった。もし、自分が同じ状況に直面すれば、迷わず霊緒さんと同じ行動をとるだろう。

「霊緒さん……」 (黄泉路を現世側から封じる為には、結界専門の知識と技術が必要になるでしょう。飛騨退魔守護色、月島家を頼って下さい。月島家は代々、結界師を生業としています。結界の事についてなら絶対の信頼がありますんで、完全に黄泉路の入り口を閉ざす事が出来るでしょう)

俺は、こくりと頷く。それが霊緒さんに通じる筈もないが、俺の無言を肯定と受け取ったのだろう、霊緒さんは更に言葉を続ける。 (皆に一人一人言葉を残せないのは未練ですが、仕方ありませんね。最後に、)

1拍間を空け、霊緒さんは優しい声でこう言い残した。

――有り難う御座います、と。

その言葉を聞いて、俺は声を張り上げた。霊緒さんとの遠話が途切れる前にと。ありあっけの気持ちを込めて。

「俺、絶対に霊緒さんを救い出してみせます!!必ず、必ずです!!だから、それまで待っててください!」

返答は無かった。遠話が途切れたのではなく、無言で頷いたのだと俺は思う。

決意は決まった。覚悟も出来た。ならば後は、実行するのみ。

先ずは――

「…………なッ!?」

信じられない感覚に、咄嗟に上を見上げる。

「瘴気の気配だとっ!?」

未だ周囲に瘴気の残留があるとか、そういった問題じゃない。残った瘴気が渦巻くような、濃密な気配だ。

壁を蹴り、洞穴内の岩盤の突起を足場に上へと飛ぶ。そして、地上に出た瞬間、自分の目を疑った。

瘴気が、一点を目掛けて収束して行く。遥か森の果てから、ばら撒かれた瘴気達はここ……屋敷へと集る。そそいて、その中心に居るのは、

「皇嵩ッ!?」

――嘘だ、という言葉が脳裏に浮かんだ。

虫の息だった皇嵩にそんな体力は無い筈だ。だというのにも関わらず、瘴気は皇嵩に群がる。まるで、皇嵩を捕食するように。

「ぐっ、ぁああああああああッ――!!」

絶叫に正気を取り戻し、皇嵩に駆け寄る。しかし、こちらの魔力はほぼ零だ。霊力に至っても瘴気で汚染されてしまっている為に『気』を精製出来ない。

八方塞がりだ。

唇を噛みしめる。すると、こちらの動きが止まったのを見越してか、皇嵩に纏わり付いていた瘴気が鎌首をもたげ、触手のように襲いかかって来た。

現世での活動時間を伸ばす為、皇嵩の体を依代に、手頃な生命力を餌にするつもりか。だが、こちらにはもう体力なぞ残っておらず、避けるだけで精一杯だ。

「あっ…………」

触手の一撃を辛うじて避けたが、そのせいて態勢が崩れた。足がもつれて地面に倒れ込んでしまう。まずい。皇嵩の周囲には、また新しい瘴気の触手が。

何とか避けねばと必至に足掻くも、腕に力が入らない。

そして、瘴気の群れがこちらに殺到し、目を瞑る。瘴気の大半が俺を襲う為に群がった瞬間、身を削ってでも浄炎をかましてやる。

「阿呆。だから、いつも詰めが甘いと言ってんだろうが」

だが、俺の生命力を食まれるおぞましい感覚は訪れず、変わりに響いたのは凛とした師の声だった。

恐る恐る眼を開けると、俺の目の前には瘴気の群れではなく、紅霞を纏った紅葉さんの背中が見えた。

しかも、それだけじゃない。

「全く……出番が少ない上に役に立てなかったんじゃあ、大妖怪の名折れよね」

「然り。この様な事態に身を呈してこそよ」

鈴鹿さんと富嶽さんだ。鈴鹿さんが皇嵩に群がる瘴気を暴風で押し止め、富嶽さんは素手で、瘴気の触手を握り潰していた。

「あ……何で…………」

神様に生命力を根こそぎ奪われて、ダウンしていた筈じゃ――

「あのなぁ、馬鹿弟子。俺達ぐらいになりゃ、回復力も並じゃねぇんだよ」

じゃあ、俺と皇嵩が戦っていた時なにもせずにいたのは動けないからではなく、生命力を回復させるために動かなかっただけか!?

「ええ。でも、信じていましたよ。必ず勝てる、と」

鈴鹿さんが微笑む。

「そんな事よりも坊、今は目の前を見ろ」

富嶽さんの一喝で、俺は皇嵩を見る。折角、分かり合えた筈なのに。折角、共に歩めた筈なのに。

「悪い、俺達が言えた義理じゃぇが、大将を助けてやっちゃくれねえか……?」

こんなボロボロの体になりながら、瘴気で動くのだって辛いだろうに。それなのに自分達の大将の為にこいつ等は此処まで来たんだ、皇嵩はよっぽど慕われていたんだろう。

わかってる。

「わかってるよ。大丈夫、俺が、」

俺が、皇嵩を助ける。

体力だの魔力だの霊力だの生命力だの言ってられない。ここで皇嵩を救えなければ、当主代理なんか務まらないッ!!

「おい馬鹿弟子。歯ぁ喰いしばれ」

気合いだけは十分。さぁ、行くぞゲフゥ――!?

「ダボッ!?」

な、何で……

突如腹部を襲った衝撃に、気合いとか全部吹き飛ばされた。見ると、紅葉さんと富嶽さんが、俺の腹を打ち据えていた。

「ごほっ、何で……」

「うろたえるな、坊。霊力を分けただけだ」

富嶽さんに言われ確かめる。確かに、先程よりも体は軽い。腹は超痛いが。

「ぼさぼさしていないで。来るわよッ!!」

鈴鹿さんの怒号と共に、暴風が吹き荒れた。風域を溢れんばかりに膨張した瘴気の群れが、地割れと共に地面から滲み出てきていたのだ。

瘴気を押し留めようと、鈴鹿さんが気流を操作し、ダウンバーストで押しつぶす。それを皮切りに、俺達も動き出す。

「爆葬・紅霞砲ッ!!」

押しつぶされた瘴気が、紅葉さんの霞によって、吹き飛ばされた。瘴気侵食によって威力は下がっているものの、元より威力は折り紙付きだ。一点に集中された紅霞の爆発は、瘴気の群れに小さな穴を開ける。そこに、

「神風・草薙」

紅葉さんの一撃で開いた穴が、鈴鹿さんの風で広げられた。皇嵩に届くには至らないが、瘴気を圧倒しているのは事実。

その穴へと、俺と富嶽さんで突っ込む。俺は蒼炎を纏い、富嶽さんは莫大な量の『気』を放出して。霊力を凍てつかせる蒼炎は、瘴気を凍らせながらその進攻を押し止める。強引に切り込む俺と富嶽さんの前に、苦しみながらも瘴気に抗う皇嵩が見えた。

「喝ッ!!」

富嶽さんが纏った『気』が、一気に放出された。俺の戦い方を参考にしたのか、俺よりも段違いの『気』の炸裂は、瘴気を霧散させ、その穴は更に大きくなった。人一人が通れる程まで。

「皇嵩っ!」

皇嵩が手の届く距離に見えた。あとは手を伸ばして皇嵩を引きずり出し、瘴気を抜けば全てが終わる。だから、

必死に手を伸ばす。この手さえ届けば、届けば必ずっ、

「!?」

咄嗟に、手を引っ込める。だが、遅かった。

「退けッ!!」

富嶽さんの怒号と共に、全速力で後退する。届かなかった右腕に目を落とすと、腕の半ばまでどす黒く変色していた。穴の外円からの瘴気に反応出来なかったか。

穴はすでに埋め尽くされてしまい、瘴気に殺到される前に離脱する。同時、侵食される前に腕を切り落とす。

「大丈夫か、坊!?」

無言で頷く。切り落とした腕に瘴気が殺到している。それを餌に何とか瘴気の範囲内から離脱するも、無駄な養分を与えてしまった。

既に腕は再生しているも、俺じゃなかったら大幅な戦力ダウンになっていただろう。

「鈴鹿さん、もう一度出来ますか!?」

あともう少し、もう少しだったんだ。次は必ず届かせる。

「今は無理よ。手が届かないわ」

しかし、事態は切迫していた。地面から噴き出す瘴気が、拡散しようとしていたのだ。それを紅葉さんが紅霞で押し止め、鈴鹿さんが屋敷内に充満せぬよう阻んでいる。長引けば屋敷内の妖が危ない。かと言って今手を話せば一気に拡散してしまうだろう。せめて、凍てついた屋敷の妖と、倒れ伏している反乱組を退避させなければ、

その時、大規模な遠話が木霊した。 (流石に日和見の段階は超えたようだ。微力ながら助太刀する)

夏月の分家筋、青柳家の当主の声か。 (私以外が倒れ、私も瘴気でそちらに近づく事が出来ない。今はこれが精一杯だ)

遣糸と呼ばれる、妖を操る霊力の糸が溢れた。それらは周囲の倒れた妖達はおろか、敷地内妖の四肢に巻き付くと、一気に巻き上げられた。その結果、妖達は青柳家の方角へと退避させる形に。完全に離脱させる事は不可能だったのか、数十メートル移動して遣糸は切れた。やはり青柳も、かなり衰弱しているのか。

ともかく、戦闘領域からは遠ざけられた。

夏月の人間は霊緒さん以外、外界に住まっている筈。ならば、今この場には俺達しかいない。

「助かりました!」 (これしか役に立てず、申し訳ない)

いや、充分だ。これで、夏月本家周辺だけでも、損壊を気にせず戦える。

「馬鹿弟子、もう一度行くぞ!!」

紅葉さんが吠えると同時、先ほどとは比べ物にならない威力と規模の爆発が起こった。だが、それだけでは終わらない。

暴風。いや、これはもう災害レベルだ。逆巻く風の奔流は、その中心地を真空の域にするまで巻き起こり、

「爆ぜろ」

鈴鹿さんの一言で、限界まで圧縮された空気が爆散した。目が開けられない程の空気爆発だったが、その中に飛び込む影が一つ。富嶽さんだ。

「ゴ、アァアアアアアアアアアアアアァァァァァァァ――――ッ!!」

鬼の咆哮がビリビリと響き渡る。それと同時に放たれるは、膨大な『気』を纏った拳の一撃。それは、悉く周囲の瘴気を?き乱し、大きな穴を開ける。

その瞬間、肉体強化の術式を重ね掛けした足で一気に地を蹴った。風を孕み、足元から爆炎を放出しながら加速の術式はその役割を果たす。

その結果、

「届けよ、俺の腕ッ!」

世界が縮まった。加速する世界の中で、皇嵩だけが視界の中に居る。徐々に大きくなっていく姿を目に、新たな術式を練る。

浄炎。遍く魔を浄化する、破魔の炎。

黄泉路が開いていた先程とは違い、今はその入口も霊緒さんの身によって閉じている。霊緒さんの、皇嵩の、そして皆の全てを無駄にしない為に、今度こそ――

目の前には、瘴気によって蝕まれた皇嵩。この手には浄炎。そして今、手を伸ばせば届く距離まで接近出来た。周囲に瘴気の影は無く、隔てるものは何もない。

だから、手を伸ばす。

『気』のみを焼き尽くす浄炎は皇嵩を焼かず、瘴気のみを浄化する。だが、これで終わりじゃない。周囲に散った瘴気も完全に滅さなければ、再び皇嵩に群がって来るだろう。また新たに術式を組む。浄炎の炎剣を両手に四つづつ生成し、八方へと投擲する。地に刺さった炎剣はそれぞれ直線で結ばれ、地に陣を描きだす。

そこに描かれたのは、俺を中心として成る八卦陣。続けて詠唱を行う。

「天地一切清浄祓――」

左手に凍てつく蒼炎、右手に焼けつく浄炎。灯して回れば、今度は俺を中心とした両儀を描く。出来上がったのは、俺を中心に据えた八卦図。天地全てを掃うという祝詞を唱え終えると同時に、ある種の結界と化した陣内を、浄化する。

「炎舞・醍炎浄」

夏月流炎舞の最奥。範囲内完全浄化術式。霊力も穢れも妖気も、一切を祓う結界系統の神格火術。

そして今度こそ完全に、瘴気は消え去った。

「やった……」

両手に燈る炎を消し、周囲を見渡す。もう、瘴気の気配は何所にも無い。皇嵩の体からも瘴気は消え去り、意識もしっかりとしている。

「終わったか、今度こそ本当に。全く以て、不甲斐無い」

悪態を吐く余裕があるなら心配は無いだろう。皇嵩は立ち上がり、こちらを見る。

「さぁ鬼子、最後の仕事だ」

皇嵩は俺の正面に立ち、両手を広げた。

「僕を、殺せ――」

一瞬、何を言っているのか解らなかった。やがてその言葉の意味を理解すると、自分でも知らない内に声を張り上げていた。

「何を言ってやがる!?」

冗談じゃない。皇嵩は何を言っている?

「馬鹿げているっ。お前、本気で言ってるのか!?」

「逃げはせんし、腹も括っていると言っただろう。覚悟の上だ」

皇嵩は、呆れたように声を漏らす。

「叛乱を企てておいて、何の罰も与えずに済むと思っているのか?お前たちは良くとも、他の退魔師が黙ってはいないだろう。僕達は負けて、お前達は勝ったんだ。そうでもしなければ納まるまい」

「テメェ、本気か?」

紅葉さんも、ドスを利かせた声で詰め寄る。しかし、その背後から響いたのは、冷たい声だった。

「確かに、理に適ってはいるな」

富嶽さんだ。その脇では鈴鹿さんも無言で頷いている。

「お前らまで何言い出しやがる?」

紅葉さんがキレかかっている。しかし、その気持ちは俺も一緒だ。

「私達は霊緒様の命で不殺を貫いてきたわ。だけど、それでは示しがつかないのも事実。私達はね、退魔師でしょう。妖を助けるというのは、その中で人と共存するという前提があってこそ。今回、皇嵩はその前提を無視したのよ。本来なら皇嵩はおろか、叛乱に参加した妖を皆殺しにして然るべきよ」

その言葉は、どこまでも退魔師として正論だった。人に仇為す人外を退けるから退魔師。皇嵩は人間界に宣戦布告しようとしたのだから、本来は敵なのだ。ただ、霊緒さんが不殺を唱えたからこそ、皇嵩は敵でありながら許されようとしている。

「坊、我等も進んで殺めようとは思わぬ。霊緒様に指示を仰がねばどうしようもあるまいて。して、霊緒様は御無事か?」

その言葉に、俺は固まった。霊緒さんは、もうこの世にはいない。その事実を言わない訳にはいかない。

その事を伝えると、富嶽さんは拳を握り締め、鈴鹿さんは唇を噛みしていた。皇嵩は無言で立ち尽くし、紅葉さんに至っては崩れ落ちて、拳で地面を殴っていた。

「そう……か、」

富嶽さんの口から漏れた声は、悲しみを押し殺したような静かなものだった。

――二人で、理想を目指せ。

自分があんな状況に陥ってまで、俺達の未来を案じた霊緒さん。その遺志をどうして富嶽さん達が蔑ろにできようか。

富嶽さんも、鈴鹿さんも紅葉さんも、誰も皇嵩を憎む目をしていなかった。霊緒さんの死は、俺達にとって取り返しがつかない程重い事実となってのしかかった。だが、その痛みに目を取られて未来を見る事を忘れさせない為に、霊緒さんはあの言葉を残したのだろう。

皇嵩達は許された。人間と妖が共存出来る世界を目指すのを条件に。

「皇嵩、俺達と一緒に来い。妖が安心して暮らせる世界を……俺達で築く為に――」

改めて、立ち尽くす皇嵩に手を伸ばす。霊緒さんの遺志を継ぐ為。霊緒さんと俺達が夢見た世界を目指す為に。

皇嵩は逡巡した後、かすかに笑った。















その瞬間、誰も反応出来なかった。















皇嵩の鳩尾から、銀色の刃が生えていた。そこで、口から血を流しながら笑う皇嵩を見て、わかった。あれは、自嘲するような、諦観の笑みだ。

誰も、動けなかった。まるで虚空から刃が生えたかのような感覚。だが、皆にここまで知覚されないなんて、まるで、

脳裏に浮かんだ可能性は、最悪の形で当たってしまった。

皇嵩の背後、空間から滲み出るようにして景色が崩れた。ハラハラと舞うのは、無数の木の葉。その裏面に、景色が映っていた。

まれでカーテンのような幻術の影から現れたのは、最も親しい乳母の姿だった。

「たま!?」

たまが、手にした刀で皇嵩を刺している。

「此度は愚息がご迷惑をお掛けして誠に申し訳御座いません」

能面のような表情から発せられたのは、他人行儀な硬い声だった。

思考が追い付かない。現状が理解出来ない。たまは、一体何を言っている!?

「玉部、お前……」

紅葉さんの問いかけに、たまは静かな声で返した。

「これが、私達親子の罪滅ぼしなのです」

「親子だって!?」

黒巣家当主の実子、皇嵩が半妖なのは知っていたが、その母親がたまだとっ!?

「始まりは、些細なものでした。」

たまは、静かに話しだした。

「妖を顧みない黒巣は、どこまでも退魔師でした。容赦無く妖を滅していた黒巣は、夏月家の当主となった霊緒様と対照的に、妖達の恨みを一身に受けておりました。ですが、それも妖のためなればの事だったのです。

黒巣は、人を襲う妖を率先して討伐する事によって夏月を盤石なものにしようとしていたのです。それは、妖を取り締まる警察機構」

「でも、それは退魔師が担っているんじゃ、」

「いえ、今でも西の退魔師は悪鬼必滅を唱え、妖や、魔であれば見境なく屠っていきます。それは、妖が人に仇為すからだと。しかし、妖は人に仇為す存在だけでは無いのも事実。だから妖に妖を取締させれば、妖の認識も変わると、黒巣はそう思ったのです。

しかし、黒巣も退魔師でした。理想の為には情を捨て、私達を道具のように扱いました。私情を挟まない黒巣に、妖達は不満をつのらせ、そして此度の叛乱に至ったのです。夏月も、黒巣も、そしてこの子もその起源は同じ。妖を思えばこそでした。しかし、黒巣は歪み、この子は道を間違えてしまった……その結果、黒巣と夏月の当主を殺めるという結果になってしまいました。それを知りつつも私は止められなかった。これが、私達親子の咎なのです」

情が見えないから、蔑ろにされていると思ったのか。それは何て、悲しい事なのか。

「本来なら、私が止めるべきでしたね。でも、私は止める事が出来ませんでした。この子の決意を知ってしまったから。ですが、まさか霊緒様がお亡くなりになるなんて……」

――――たま?

「申し訳御座いません坊ちゃま。暇を頂きます」

「たま!」

木の葉が吹き荒れる。幻惑するように渦巻くそれは、たまと皇嵩を覆い隠し、

「これが、私の罪滅ぼしなのです。どうぞ、追わないで下さいまし」

「駄目だ、たまッ!」

叫びながら手を伸ばすも、届かない。しかし、代わりに俺に届いたのは、斬撃だった。

「なっ!?」

四人の声が重なる。斬撃を受けるのを感じたが、痛みは無い。その代わりに、体中の力が抜けるのを感じた。ガクリと足から崩れ落ち、地面に倒れ込んだ。

「くそっ、霊力を斬られたかっ」

紅葉さんが呻く。たまは、妖気や霊力を斬って、一時的に俺達の体を麻痺させたのか。これじゃ、たまを追う事が出来ない。 (蔵が燃えていますよ!?一体何があったのですか!?)

青柳の当主の声が響く。たまは蔵かっ。蔵の中では火術以外の術は殺され、火術の威力は上がる。おそらく蔵の中で自害するつもりか。

「馬鹿弟子、もう一回だっ」

「え?」

紅葉さんが叫ぶや否や、顎に紅葉さんの蹴りが飛んで来た。それだけでは終わらす、鈴鹿さんが俺の鳩尾に鋭い蹴りを入れ、富嶽さんの拳が、脳天に刺さった。

「たまを追いますっ!!」

霊力付与だ。意図が解っていたので三人には詰め寄らず、そのまま走り出す。痛みはもう気にならない。

「…………」

三人が各々何か呟いたようだったが、走りだした俺の耳には届かなかった。

蔵が、燃えている。火の勢いは益々強くなり、木製の梁は崩れ落ち始めていた。その中に、迷う事無く飛びこむ。扉を蹴破り、必死に声を張り上げる。

「たまーーーーッ!」

炎の勢いが強い。俺には関係無いが、早くしないとたま達が危ない。蒼炎で消そうにも、魔術との混成であるために蔵の中では遣う事が出来ない。目視だけが頼りだ。

「何処だ……」

一階には見当たらない。とすれば二階か。蔵の奥にある階段を駆け上る。しかし、炎に焼かれ途中で崩れ落ちた。咄嗟に二階の床部分に手を掛けて、体を上に引き上げる。

いた。一番奥、壁に背を預け、その腕に血まみれの皇嵩を抱いて座っている。

「たまっ!?」

こちらの叫びに、たまが俺に気づいた。驚く顔も一瞬で消え、たまは悲痛な声で叫んだ

「坊ちゃま!?……どうか近づかないで下さいまし」

おそらく、近づけは舌を噛み千切るつもりなのだろう。これ以上近づく事が出来ない。

「どうして、どうしてだよ、たまっ」

そのどうしては、どうして皇嵩を殺したのか、どうして死のうとするのか、そして、どうして拒むのか、その三つの意味全てが混じっていた。

「それが、この子の願いだったからです。黒巣を殺めてから、その真意を知ったこの子は、思う所があったのでしょう。故に、今回の叛乱劇を企てました。初めから、この子は負けるつもりだったのですよ。そうして夏月に恭順する事で、一人の命によって妖の創意を一つにする事にありました。ですが、この子にとっての誤算は、霊緒様の情けと、その死でした。本来ならば自分が死に、霊緒様が生きる所を、この子が生き残ってしまった。狂言だという事を悟らせぬ為に黄泉路を開いたのが仇となったのか、それとも最初から歪んでいたのか、今となってはこの子の真意はわかりません」

「だからって、死ぬ事は――」

死んで罪滅ぼしなんて間違ってる。

死者は帰ってこない。

たま達のした事は、確かに取り返しのつかない事だ。でも、それを死で償うなんて間違っている。霊緒さんは生きろと言ったのだ。

「そんなの、間違ってる」

「ええ。これは逃避なのでしょうね。大切な人を殺めてしまったという事実からの。ですが、霊緒様亡き今、叛乱を企てた首謀者が生きていれば夏月はバラバラに、ましてや他の退魔師から疑いの目で見られるでしょう。妖側に寝返った裏切りの一族として。ですが、私達が死ねば、最低限の地位だけは保てます。当主の命と引き換えに、叛乱を収めたと。ですから、どうかこのまま死なせて下しまし」

「嘘だ。そんなの、尤もらしい理由を言ってるだけじゃないか。俺は、たまの本心が聞きたいんだ。本当は、死にたくなんてないんだろう?」

「これが私の本心ですよ。何故そのような事を……」

「だって、妖と人間が共存出来る世界が、たまの夢だったんだろ?この平穏な日々が続けばいいって言ってたじゃないか。これから夏月の意志が一つになるのなら、その先に待つのは悪い未来じゃない筈だから。その未来が、たまの臨んだ未来に繋がっているんだから。だから、俺はたまに生きていて欲しい」

たまは、唇を噛んで俯く。まずで、図星を突かれたように。

「それに、暇を貰うって言いながら、ずっと俺の事坊ちゃまって呼んでるじゃないか」

たまは、はっと顔を上げ、それからゆっくりと微笑んだ。

「未練タラタラですね、私。親馬鹿、と笑われるかも知れませんが、よくぞ立派にお育ちになられましたね、坊ちゃま。たまは嬉しゅう御座いますよ。これならば、夏月も未来も安泰でしょう。ただ、心残りなのは、その未来へ坊ちゃまと共に見れぬ事……」

「駄目だっ、たま!!」

「もう、遅いのですよ。」

たまが、ゆっくりと目を伏せた。次の瞬間、

「たまっ!!」

目の前に、巨大な梁が降ってきた。それを契機に、蔵全体が崩壊し、俺の意識はそので途切れた。

「もっと、貴方に愛情を注いでいれば、何か変わったのかもしれませんね……」

事切れた我が子に囁きかける。頬を撫でる手には、真赤な血が。妖怪にも赤い血が流れているのだ。

「ごめんなさい……私が、」

私が、…………何だったのだろう。子供を忌み子として投獄されて、何か出来たのか。我が子が生きていると知らされた時には、草玄はこの子に殺された後だった。私に出来た事は、草玄の真意を知ったこの子の決意を見届ける事だけ。それも、霊緒様がお亡くなりになるという最悪の事態になってしまった。

でも、そんな自分達にも、あの人は生きていて欲しいといってくれた。

本当、本当に、

「御立派になられましたねぇ……」

優しい、坊ちゃま。やはり、いつまでたっても坊ちゃまは坊ちゃまだ。その事実は変わらない。例え、私より年上であっても、本当の家族でなくとも。

願わくばこの身で、夏月の結束が盤石になれば本望だ。

「もっと、あなたに愛情を与えてあげたかった……」

我が子の頬に手を当てながら、呟く。

この子と坊ちゃまが、手を取り合って築いた町の中で、坊ちゃまの子供の乳母をして暮らせたら、どんなに幸せだっただろう。

その時、腕の中で皇嵩が動いた。

「母上、もういいのです。私は、そう言って貰えるだけで幸せです」

その言葉で、遂に涙が溢れた。そうして、強く、我が子を抱きしめる。

「ごめんなさい……ごめんなさい皇嵩。私が、貴方を止めていれば、」

嗚咽混じりの私の言葉を聞いて、皇嵩は首を振る。

「元は、僕が道を間違えなければよかったんだ。とどのつまり、一番人間を信じていなかったのは、僕だったんだ。もし、あの時霊緒さんを信じていれば、」

誤ればキリが無いし、過ちは取り返しがつかない。私達に出来る事は、ただ、この身を以て罪滅ぼしをする事。

「私達親子は、過ちばかりでしたね」

何所からやり直せば、幸せになれただろうか。もしかしたら、やり直してもまた違う過ちを犯していたかも知れない。

どちらにせよ、私達お犯した罪は取り返しがつかず、私達はこの咎を背負って死んで行く。

ただ、最後にこの子に許された事が、唯一の救いになった。

もう一度、この子を抱きしめる。強く、強く、いままで注げなかった愛情の分まで、強く。



―眩月退魔譚―

気が付けば、俺は蔵の外に倒れていた。屋敷の何処にも二人の姿は見当たらず、蔵の焼け跡を探すも、燃え落ちた残骸が多すぎて遺体は見つからなかった。

叛乱に加わった妖達は、夏月の下に完全に服従する形となったが、青柳家と黒巣との話し合いは続いている。三家内で妖の扱いに相違が生じ、妖の立場が難しいものとなった。しかし、それは退魔師の中でであって、妖達の意志は一つに纏まっている。

人間と妖の行く末を担った内乱は、三人の犠牲者を出し、その混乱の終結には、さらに数カ月の月日を要した。

そして、今。俺は鈴鹿さんと富嶽さんと相対する形で、屋敷の正門に居た。俺の傍らには、紅葉さんが控えている。

「本当に、それでいいのか?」

何度も念入りに富嶽さんが尋ねるも、答えは変わらない。

「当主の座は有希に譲ります。俺より有能だし、あの子も霊緒さんと志は一緒です」

党首の座は、妹の有希に譲った。火術の扱いは俺よりも上手いし、退魔師としての素質も十分だ。今は俺が当主代理という事になっているが、有希には当主として霊緒さんの跡を継いで欲しい。そのための研修期間にうってつけなのが今だ。

何より、今屋敷を留守にする事は出来ないから、どのみち俺の代わりに居て貰わないと困る。

事後処理に時間がかかり過ぎてしまったが、やっとこの日が来た。

「じゃぁ、気を付けて行って来るのよ」

鈴鹿さんの一声に押され、俺達は踵を返した。頭上を見上げると、煌々と輝く銀色の十六夜が浮かんでいた。あの日と同じ、眩むような月だ。あの日の誓いは忘れていない。

決意を決めて、紅葉さんと共に歩きだ出す。

結界師を生業とする退魔師、月島家があるという――飛騨地方へと

――眩月退魔譚・陸奥編 完



―蛇―

森の中を、一人の男が走っていた。肩口まで伸びた黒髪と、何処にでもいるような印象の薄い顔立ち。一見影の薄そうな雰囲気だが唯一、細めの目が蛇を連想させた。

霧崎仁だ。

仁は、何かから逃げるとうに走っていた。偽装術を維持出来ないくらいに焦り、息も絶え絶えに走り続ける。

「…………っ。はぁ、はぁ、た……助けてくれ!約束通り、妖怪達に内乱を起こさせるよう炊き付けただろっ!そうすれば俺も仲間に入れてくれるって言ったじゃないか!?」

遂に足がもつれて転倒すると、仁は後ずさりしながら叫んだ。すると、虚空から声が響いた。 (ですが、内乱を失敗させろなんて私は一言も言ってませんがねぇ)

それは、男の声だった。温和な若者の声に聞こえるそれは、仁にとっては恐怖以外の何物でも無かった。

「それは黒巣のガキがしくじったせいだろうが!!俺は関係無いっ!」 (大の大人が子供に責任を押し付けるなんてみっともないと思いませんか?)

その言葉も、仁には最早届いていない。自分の身を案じるだけしか頭に残っていない。

「助けてくれ!お願いだっ、頼む!!」

だが、しかし

(残念ながら、私は無能が大嫌いでして――) 

慇懃だった男の声に、おぞましさが加わった。蛇のように鼓膜にからみつくようなその言葉は、仁の脳髄に恐怖を植え付け、

「ひっ、ひいぃぃぃいいいいいいいいいいいいい――――!!」

仁が、枯木の虚へ引きずり込まれた。そこから聞こえるのは仁の悲鳴と、鮮血が飛び散る音、そして、

「さて、次は……」

愉悦混じりの男の声が、静かになった森に消えた。


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